ミライは手紙を書く。

 初対面の相手に向けての手紙なんてどう切り出せばいいのか。

 いや、そもそもちゃんと対面すらできていない。これは難儀だ。

 初めまして? ふつう過ぎるか。

 ごきげんよう? そんなキャラじゃない。

 お元気ですか? さすがに嫌味っぽいよな。

 さっぱり筆が進まない。

 仕方がない。ふつうの文面で進めよう。もう会うことはないのだし、いまさら体裁を気にすることはない。

 ひと目見れただけでも十分だったけど、

「声も聞きたかったな」

 ミライはハッとして我に返り、思わず漏れた本音を振り払う。

 気を取り直して便箋を広げると、静かにペンを走らせる。

『初めまして。私はミライです。この手紙を読んでいるあなたはきっと――――


 * * *


 東雲砂月《しののめさつき》が目を覚ましたのは硬いベッドの上。雪原のように真っ白な部屋に砂月はひとりで眠っていた。

「ここは……?」

 見渡すと覚えのある部屋で、自分が白い病衣を着ていることからここが病院なのはなんとなく理解した。しかし、そこまでだ。病院にいるべき理由もわからないし、ここに至るまでの記憶も朧だった。

「誰かいないのか……?」

 控えめに呼びかけてみるも、自分の声だけが虚しく響いた。

 ふと、窓へと注意を向ける。そのままベッドを降りて窓の外を覗く。中庭のようだった。テニスコート程度の広さにベンチがいくつか並んでいる。その中心には花壇が見えたが、なにも植わってはいない。

 反対側に見える病棟の廊下にも人の気配はなかった。

「ほんとうに、誰もいないのか……」

 自分の置かれた状況に困惑し、不安は増すばかりだ。でも立って歩けるし、なんらかの怪我を負ったわけではなないと思う。こんな状況だからこそ五体満足なのは唯一安心できる情報だ。

『あら、起きられたんですね』

 びくっとして振り返ると白い看護服を着た女性が立っていた。

『ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったんだけど』

 女性ははにかみながら言った。

 砂月は驚きつつも人がいたことに安堵して、思うままに聞く。

「あの、ここはどこですか?」

『どこって、病院ですよ』

「それはそうだと思うんですけど……」

『あー、もしかしてどうしてここに来たか覚えていないとか?』

 砂月は黙って頷いた。

『そっか。困ったなぁ。あたしもここに来たばかりだからよく知らないんだよね』

 新人さんなのだろうか。どちらにしてもこの病院で働いてはいるはずだ。俺よりは詳しいことを知ってるだろうから、聞きたいことはある。

「ここはどこの病院ですか? いつもの通ってる病院だと思うけど、それならかかりつけの先生がいるはずなんだ」

『どこって、病院ですよ』

 それはさっき聞いた。

「俺はどうしてここに運ばれたんですか? 事故にあった記憶もないし、入院するような病気にもかかっていないよ」

『あたしもよく知らないんだよ』

 なんなんだいったい。

「じゃあほかの先生を呼ぶか電話を貸してください。自分で聞きます」

『んー、残念だけどそれはできないかな』

「どうしてですか? まさかそれも言えないんですか?」

 思わず語気が強まった。つい声を荒らげたことに、ばつが悪く顔をそらす。

 しかし女性は気にする様子もなく答える。

『ここにはあなたとあたししかいないから』

「だったら電話でも」

『ううん。ここには、この空間にはほかに人はいないよ』

 砂月は絶句した。このひとは何を言ってる。この病院内どころか外にも人がいないだって? なんの冗談だ。夢でも見てるのか? いやそうに違いない。

 このひとが壮絶な虚言癖を持っているという線もあるが、まだ夢落ちのほうが説得力がある。

 それなら真面目に取り合うこともない。適当に時間を過ごせば目が覚めるだろう。

「わかりました。とりあえず、あなたの名前を教えてください。しばらくはほかに話し相手もいなさそうだし」

 それを聞いた女性は砂月に近寄り、やさしく微笑む。

『ミライと呼んでください』

 それからしばらく時間が経った。時計もない真っ白な空間せいかどれくらい経ったかまでは定かじゃない。数時間のようにも思えるし、まだほんの数分しか経っていないのかもしれない。

 ミライと名乗る女性はあいかわらず何も教えてはくれなかった。

 というより表情や口ぶりから考えると、本当に何も知らないんじゃないかと思えてくる。

 いくらなんでもそんなことはないと思いたい。ほかに誰もいないというのなら、彼女だけが頼みの綱だ。

「ミライさん」

『なんですぅ? また質問ですか? 答えられることはないと思うけど』

「この病院の、いやこの空間のことについて答えられないのはわかりました。ならあなたのことを聞きたい。どこの誰で、あなたがここにいる理由を」

『んー、そうですね。まずあたしが誰かってところですが、はっきりと言えるのはれっきとした人間だということぐらいですね。天使や悪魔ではないです』

 そういうことを聞きたかったわけじゃないのだが。まぁ返答が得られただけでも一歩前進だ。

「俺のことを知ってるような感じがするんだけど、会ったことあるとか?」

『いえ? お会いしたことはなかったはず。今も昔もこの先も』

「今もこの先もって?」

『本当のあたしはあなたと会っていないってこと』

 答えてくれたと思ったらこれかよ。体よくはぐらかされてるだけのようだ。

 ちくしょう、埒が明かない。このまま無駄に時間だけ過ぎていくのを待つしかないのか。

『ほんとうは……』

 ミライがぼそりと呟いた。砂月はそれを聞き逃すはずもなく、聞き返す。

「なんですか?」

 少し言い淀むように、ミライは視線を泳がせる。

『ほんとうは、こうなる予定じゃなかったんだ。あたしはちゃんとやったはずなのに、どういうわけかこんなことになっちゃって。だからあなたを困らせるようなことにもなってる』

 あいかわらず何を言ってるかわからないけど、

「原因はあなたにあると?」

『んやぁ、きっかけではあるけど原因じゃないんだよ。原因は言ってしまえば誰のせいでもないことだから。とにかく、一刻も早くここを出られるように頑張ってるから、もう少し待ってほしいな』

 俺にはさっきから突っ立ってるだけに見えるんだけど、何を頑張っているというんだ。砂月の疑いのまなざしが変わることはなく、ただそこにいるだけのミライに注意を払い続けた。

 それからまた時間が流れ、ふいにミライが声をあげた。

『あっ』

「どうした?」

『えーっと、ちょっと待ってください』

 ミライは手のひらを砂月に向けて制した。何事だ。ミライが何かしている様子はなく、変わりなく突っ立っているだけにしか見えない。

『ごめん。あたし先に行くね』

 それだけ言うとミライは背を向け扉のほうへとかけていく。

「なっ。おい、待てよ」

『だいじょうぶ。すぐに目が覚めるから、ここにいてね。部屋から出ちゃだめだよ』

 ミライは部屋から出ていき、あっという間に姿は見えなくなった。

 目が覚めるって……やっぱりここは夢の世界だったのか?

 正直なところ、それならそれで助かる。目が覚めればいつもの日常に戻れるんだから。

 そこまで思い至ったところで、砂月の心に引っかかることがあった。

 いつもの日常……それってどんなだった? 思い返せば俺はここに至るまでを知らない。ここに来る前を覚えていない。仮にこれが夢だとしたら、現実の俺はどうなってる? 生きているとして、いったい俺はどんな生活をしていたんだ。自分のことでわかってるのは名前と家族のことだけだった。育ってきたこれまでのことを何も思い出せない。

 砂月の心に影が差した。

 いやだ。こんな気持ちのまま目覚めたくなんてない。せめて俺が何者なのか知っておきたい。

 誰か教えてくれ。いったい俺は誰なんだ。

(――――さん)

 なんだ。

(――つきさん)

 声がする。

(さつきさん)

 誰だ、俺を呼ぶのは。

 誰でもいい、俺のことを知っているのなら。

 だから……!


 * * *


 東雲砂月が目を覚ましたのは病院の硬いベッドの上だった。

 身体を起こそうとして痛みが走り、思わず唸る。

「砂月さん。まだ寝ていないとだめですよ」

 聞き覚えのある声。声のする方へ目をやると見慣れた女性の姿があった。妻の弥宵《やよい》はベッド脇の椅子に座ってこちらを見つめている。

「弥宵さん……ここは……」

「いつもの病院です。覚えていないのですか?」

 心配するささやくような声に落ち着きを取り戻し、何があったのか思い返してみる。

「仕事の帰り道で、たしか……そうだ、車に轢かれそうだった女性を助けようとして、車道に飛び出して……彼女はどうなった?」

「砂月さんが助けた女性は無事だそうです。怪我もなかったそうですぐにいなくなってしまったらしく、詳細はわかりません。私もお会いしていませんし」

「そうか。無事ならいいんだ、無事なら」

 安堵する砂月。

「いつもなら私がベッドに寝ているはずなのに、なんだか変な感じですね」

「あぁ、そうだね。からだは大丈夫?」

「はい。しばらくは安定期と聞いていますし、いまは砂月さんの方が心配ですから」

 砂月の調子がまだ悪そうなのを見て、弥宵は立ち上がった。

「先生を呼んでくるわ。砂月さんは横になっていてください。まだ顔色が悪いです」

 弥宵の気遣いに砂月は素直に従った。

「すまない。ありがとう」

「はい」

 弥宵は微笑み、病室を出ようする。しかし、何かを思い出したように振り返って戻ってきた。

「いけない、砂月さんに渡すように頼まれたものがあるのでした」

 そう言いながらサイドテーブルに置かれた封筒を手に取り、砂月へと渡した。

 砂月は受け取ると封筒を確認した。白無地の封筒には宛名も差出人もない。

「誰から?」

「それが、受付に預けてあったもので私も先ほど受け取っただけなんです。受付の方に聞いてはみたんですけど、女性ということぐらいしか。私や砂月さんのことを知っていたそうで、受付の方も特に怪しまれなかったそうなので」

 しっかりと封がされていて、開けられた形跡はない。厚みもなく見た目通りに手紙が入っているだけのようだ。

「読んでいてもかまいませんけど、無理せず横になっていてくださいね」

 それだけ言い残し弥宵は病室を出ていった。

 残された砂月は封筒を破らないように封を切って、中身を取り出す。

 予想通りに便箋がでてきた。砂月は広げて内容を確認する。

 便箋にはまるっこい字ではあるが丁寧な文字が綴られていた。

『初めまして。私はミライです。この手紙を読んでいるあなたはきっと無事に生きていることでしょう。

 先ほどまであなたが見ていた景色は夢であり現実でもあります。傍にいた女性は私の人格のひとりです。あの空間を維持するためと、あなたがあの場所にとどまるようにするための監視を兼ねていました。急いで用意した人格だったので、言動に落ち着きがなかったことをお詫びします。

 本来なら対象者に干渉する予定はなかったのですが、不幸中の不幸が起きてしまったので、仕方なくこうして手紙を残してまであなたに謝罪と説明をすることになりました。

 本題です。

 意識を失う前のことはあいまいかもしれませんが、あなたは帰宅途中に車に轢かれそうになった女性を助け、代わりに事故にあったところでした。その女性は私です。

 お礼は言いません。私は理由があってわざと轢かれるところだったのです。

 その理由とは、東雲砂月を守るためです。

 本来であれば、あの時間、あの場所、あのタイミングで、あなたが事故にあいました。

 そして死んでしまった。

 あなたが亡くなった後、私は東雲砂月を救うことになります。

 事故が起きた時間へ行ってあなたの代わりに車の前に飛び出しました。それをあなたが助けようとするところまでが計画でしたので、まんまとあなたは私を助けました。そうして因果律を捻じ曲げてあなたから死を取り除いたのです。

 あなたは助けた私のことは知らないままで終わるはずでした。ですが、直接の接触をしてしまったせいなのか、私の意識があなたへ混ざり込んでしまい、あのような景色が生成されてしまいました。

 通常はあり得ないのですが、存在が近いせいかそのようなことが起きてしまったようです。

 無意識下とはいえ不安を与えてしまい、すみませんでした。

 私とあなたに関係が生じたのは事故だったので、関連する記憶はしだいに消えることでしょう。

 説明はここまでとさせてもらいますが、まだ聞きたいことがあると思います。

 私が何者か、などなど。

 それらについてはもちろん答えられません。

 あなたの将来に影響を与えてしまいますので。

 もし、どうしても知りたいのであれば――――――――』

 そこで終わっている。

 砂月は轢かれそうになっていた女性を助けようとしたことは思い出せていた。

 しかし、手紙でも書かれていた景色、先ほどまで見ていたあの空間でのことは朧気にしか思い出せずにいる。見た夢を忘れてしまうことはよくあるけど、これはそんな感覚ではない。いまこの瞬間にも確実に記憶から消えていくのがわかる。徐々に薄れていき、記憶の海に溶け込んでいく。

 このままでは彼女のことも認識できなくなる。この手紙も理解できない紙切れへと変わってしまいそうだ。

「そうだ。記憶があるうちに弥宵さんにも読んでおいてもらおう。無駄かもしれないけど」

 弥宵の言いつけを忘れてしまったのか、焦る砂月はベッドを飛び出して弥宵を呼びにいった。

 誰もいなくなった病室。砂月が飛び出した勢いで封筒は床に落ち、そこから二枚目の紙が零れていた。

 便箋ではなく、破り取ったような紙片。

 そこに書いてあるのはたった一言。

『未来で待ってます』

 

 今は昔、近江の山の麓にひとりの男が住んでいました。

 男の名は愛之介《あいのすけ》。年のころは二十歳そこそこで、古びた平屋にひとりで暮らしています。

 村のはずれに住んでいることもあり、愛之介はほかの村人との交流もほとんどなく、きょうまで生きてきました。

 田畑を耕し、井戸水を汲み、囲炉裏に薪を熾す。不自由を感じたことはないが、繰り返される日常に少なからず厭きがきていました。



 初雪が降ったその日、愛之介のもとへ小鬼がやってきた。

 鬼といっても容姿は人間のそれで、鮮やかな柄の着物をまとった姿は鬼のイメージとはかけ離れたものだった。唯一、髪を分けてのぞかせる一対の角が鬼であることを象徴している。

 小鬼は少女のような声で言いました。

「おまえが愛之介だな?」

 幼い姿からは想像できないとても落ち着いた声に、愛之介は臆することなく答える。

「ぼくのことだけど」

「そうか。では邪魔するぞ」

 言うが早いか、小鬼は愛之介の横をするりと抜けて家へと上がり込んだ。

 愛之介は慌てて後を追ったが、小鬼はあっという間に居間の炬燵へともぐり込んでしまった。

「かまうことはないぞ。好きにやらせてもらうのでな。あぁ、茶請けは甘味を頼む。霰餅は好かんのだ」

 着物がくずれるのも気にすることなく我が家のように寛ぎだす。

 知らぬ他人がかってに上がり込むことですら見過ごせない事件だというのに、それが鬼ともなれば騒ぎたくもなるというもの。

 気を落ち着かせ、愛之介は初めて見る鬼にも躊躇うことなく意思の疎通を図る。

「お会いするのは初めてだと思いますが、いったいなんの御用ですか? あとあいにく甘味はありません。ぼくは食べないので」

 それを聞いた小鬼はひどく憤慨した。

「なんと! 甘味もなしに客をもてなせると思っているのか! 来訪者にはお茶請けを出して然る可きであろう」

「前もってお話があればそうもできたのですけど、寝耳に水なので」

「このような僻地に客など来ないと慢心したか。まぁよい。これからは用意を怠るでないぞ。吾《われ》は寛大であるからして甘味であれば種類は問わん」

「それは検討するとして」

「検討の余地などない。用意するのだ」

 さながら鬼の形相をしているのだろうが、愛らしい面持ちでは迫力に欠けた。

「鬼のかたがぼくになにか御用ですか? こっちは善良なただの村人なんだけど」

「自ら善良などと口にする輩は信用できんが、愛之介は場合はその例に漏れるか。相変わらず何を考えているかわからん奴よな」

 小鬼は安堵とも呆れとも思える溜め息を吐く。

 その口ぶりに愛之介は自分の記憶の引き出しを開けてみた。

「もしかして、以前に会ったことがありますか……?」

 愛之介の言葉に小鬼はやや興奮気味に言った。

「やれやれ、やっと思い出したのか」

「いえ残念ながらまったく」

「戯けが!」

 そう叫びながら、小鬼は着物の袂からお手玉を取り出し愛之介へ投げつけた。

 しかし愛之介は飛んでくるお手玉を確認するとなんなく受け止める。

「危ないなあ。人に向かって物を投げてはいけないと教わらなかったんですか」

「吾らに向かって豆を投げつけてくる人間らに言われとうないわ!」

「あー、あれは行事の一環だから」

「問答無用!」

 小鬼はさらにふたつのお手玉を取り出しまた投げつけるが、やっぱり受け止められてしまう。愛之介はそのままみっつのお手玉を宙にほうり上げ器用に回しはじめた。

「おー、意外とまだできるもんだな、っと」

 その姿にしばし見とれていた小鬼は我に返ると口をとがらせる。 

「まだ愛之介の勝ちではないからな! 待っておれよ!」

 定番の台詞を置いて、小鬼は涙目になりながら走り去っていった。

 呼び止める暇もなく、居間には愛之介がひとり残される。

 しばらくの静寂、愛之介はぽつりとつぶやく。

「いったい何をしにきたんだろう」



 それからというもの、小鬼は愛之介のもとへ入りびたるようになった。

小鬼は椛《もみじ》と名乗り、愛之介もそう呼ぶようになる。

 鬼である椛は近江の山で暮らしている一族で、滅多なことでは人里に降りてはこないというが、じっさいに椛はここに来ていた。さいしょの口ぶりから考えるとぼくに会いに来ていると思うのだけど、記憶に心当たりはない。椛が訪れてからひと月が経とうとしていたが、彼女がここに来る理由はいまだに分からないままだ。

 緩み切った表情でお茶請けを食べているときなど、不意をついて聞いてはみるがのらりくらりとやり過ごされるばかり。直接聞き出すのは難しそうだ。

「愛之介、なにを呆けておる。昼餉《ひるげ》をとったら山に行くと言っただろう」

「ごめん、ちょっと考え事を」

「悩み事など似合わんぞ。吾に話してみろ。快刀乱麻を断つがごとく解決してやろう」

「いったいぼくに何の用があるんですか?」

「なにをしている! はやく行かねば日が暮れてしまうではないか!」

 椛は脱兎のごとく山へと向かって歩き出した。

「聞こえていましたよねー?」

 愛之介の声はすでに届いてはいないようだった。

 椛を見失わないようにあとを追いかけた結果、ずいぶんと山の奥まで入り込んでいた。獣道ともいえないわずかな道筋を草木をかき分けながら突き進む。

 やっとのことで椛に追いつき足を休めることができた。体力はあるほうだと思っていたけど、さすがに疲労を隠せない。

「この程度で息を切らすとは脆弱な。鍛錬が足りんぞ」

「山道……というか獣道をあんなペースで歩いていたら、たいていの人はこうなるよ。知らない道で迷うかもしれないから必死だったし……」

「知らぬ道ではあるまい」

 椛がつぶやくも、その言葉が愛之介に届く前にそれは姿を現した。

 薄暗い森の中に神社がぽつねんとたたずんでいる。

 しかしすでに放棄されているのか、柱は朽ちて瓦屋根は崩れていた。申し訳程度に存在するいくつかの燈籠だったものが、風雨にさらされた年月を物語っている。

 椛はその社をじっと見つめていた。なにかが起こるのかと愛之介もただじっと待つ。

 だが変化はなく、風に吹かれ森がざわめく音だけがあたりを満たしている。

 しびれを切らした愛之介が声をかけようとしたとき、

「恋太朗《れんたろう》。まだ、吾のことがわからないか……?」

 椛はすがるような声で愛之介を見る。

 その言葉が自分に向けられていると確信するには時間を要した。

「ぼくは……愛之介ですよ」

 そう答えてしまった。自分の中で言葉にならない感覚がせめぎあっていたけど、口から出たのはやはり自分の名前だった。

「すみません」

「ふん、なにを謝っている。そうとも、おまえは愛之介だ。あぁ、わかっていたとも」

 椛は踵を返すと、

「暗くなる前に降りるんだぞ」

 それだけ言い残し、森の奥へと帰っていく。

 止めることもできたはずだけど、いまのぼくにはかける言葉が見つからない。ただ小さな背中を見送ることしかできなかった。



 それから数日後、愛之介のもとへ鬼がやってきた。

 鬼といっても椛ほど小柄ではなく、ひかえめに言っても2メートルはありそうな大鬼だった。

 大鬼は強面な見た目とは裏腹にくだけた調子で話しかけてきた。

「よぉ、おまえが愛之介か?」

「ぼくのことですよ。よかったら中へどうぞ、ちょうどお茶請けが余っているところなんですよ」

「ん? そうか? じゃあ遠慮なく邪魔するぜ」

 大鬼はほがらかに迎え入れられたことに内心驚きつつも、鬼の威厳のためそれを表には出さないよう努める。けれどもめったに相対しない人間に好奇心は抑えられなかった。

「おまえ、おれのことが怖くないのか? こんな顔だし、でかいし、鬼だぜ?」

 愛之介は臆することなく微笑んだ。

「じつを言うと、鬼のかたに会いたいと思っていたので」

「……豆は投げないでくれよ?」


「自己紹介がまだだったな。俺はニオってんだ」

 ニオと名乗る大鬼は出されたお茶を行儀よく飲んだ。

「椛さんはどうしてますか?」

 束の間、核心に触れる言葉を先に言われてしまいニオは唖然とする。

「おまえ、俺があいつのことで来たってなんでわかるんだ」

「鬼の知り合いは他にいませんから」

 愛之介は笑って答える。

「そ、そうだよな! ふつうに考えたらそうなるよな! って、さっき鬼に会いたいなんて言ってたのも」

「さいきんは姿を見ていないので心配をしていたんですよ」

 その言葉にニオは表情を曇らせた。

「なにかあったのですか?」

「そのことなんだけどよ、あいつはここにはもう来ない。今後一切な」

 神妙な面持ち。ニオが嘘や冗談を言ってるわけではないと感じるも、わからないことがある。

「ここに来れなくて代わりにニオさんが伝えに来たのはわかります。だけど、それを伝える理由がわかりません」

「なんだって? 俺は賢くねえんだ。わかるようにいってくれ」

「ここに来ない理由はいくつか想像がつきます。もともと近江の山中に暮らしている鬼ですから、人間と共存を望んでいるわけではないでしょう。それでも椛さんはぼくに会いに来たのだからそれなりの目的があったはず。その目的が果たされたかはわかりませんが、あの後ろ姿を見た限りそれはないでしょう」

 ニオは口を固く結び黙って聞いていた。

「どうやらぼくは彼女の期待に応えられなかったようです。でも彼女は自分の都合で単身でここへやって来た。それが来れなくなったからといって、理由をぼくに説明する必要はないはずです。ぼくはその説明を受けても理解はできない、そう彼女は思っているはず」

 大きなため息を吐いたニオはゆっくりと愛之介を見据えた。

「妹にもそれぐらい理性があればもっと楽だったろうな」

 ニオは残ったお茶をひと息で飲み込むと、居住まいを正した。

「たしかに、いまのおまえさんにはこの話をしても意味がないだろう。あいつもそう思ってる。だからここに来たのは俺の意思だ。おまえにはこの話を聞いてもらわなくちゃいけねぇ。そうでなきゃ俺の気が済まない」

「そうですね、ぜひ聞きたいです」

 期待と悲哀を含んだ声。愛之介も吉報でないことは承知の上だった。椛との縁はか細いものかもしれない。それでもつながりを無碍に切るわけにもいかない。これは受け止めるべきことだ。

「なにから話すか。そうだな。おまえは輪廻を知ってるか?」

 賢くないという割には難しい言葉を持ち出してきた。

「生き物がまた生物に生まれ変わることですよね。転生ともいうそうですが」

「そうだ。人間たちはどうか知らんが、俺たちはそれが輪廻をしたものかどうかがわかる。つっても輪廻したか否かがわかるだけで、前世が何者だったかまではわからねえが」

「見ただけでわかるというと、なにか目印みたいなものがあるんですか?」

 ニオは首を振る。

「物理的に何かがあるわけじゃねえ。俺らの眼にはそうとわかるってだけだ。しいて言うなら、色が違うって感じか」

 いささか腑に落ちないところがあるが、愛之介は相づちをして先を促した。

「いいかよく聞け。おまえは恋太朗って人間の生まれ変わりだ。輪廻した奴ってのはたいていは前世の記憶なんざ持っちゃいねえ。ただ存在が近しいってだけで別人であることには変わりないからな。だから、おまえは何も悪くない。あいつが期待しすぎただけのことだ」

 誰かの生まれ変わり。そう言われても実感はないが、向こうにはそう見えているのか。

「ぼくが、その生まれ変わりかどうかはわかりませんが、でも、期待するだけの理由があったってことですよね」

 冷静な問い掛けにニオは渋い顔で続ける。

「ああ。たいていは記憶が無い。だが稀に記憶を持った奴もいる。自覚が有るかはわからないけどな。潜在的に記憶が眠っていてふとした拍子にそれが目を覚ますこともある」

「潜在的に、恋太朗氏が……どうやらぼくは稀な人間だったわけですか」

「自覚してくれてりゃ言うことなしだったんだがな」

 愛之介は深呼吸をして椛の姿を思い描く。その瞳に映っていたのはぼくではなかった。それを咎める権利は無いし、残念だと嘆く心情でも無い。ただ、ほんの少しだけ、やりきれない思いが残っている。

 ニオは溜め息を吐いて愚痴るように言った。

「輪廻した先が同じ生類だった場合、その容姿はかなり近いものになる。俺も何度か恋太朗の姿を見たが、おまえはそっくりだよ。だからあいつも」

「ぼくにその姿を重ねて、そして自分のことを思い出してほしかったんですね」

「ああ、そういう、こった」

 気遣いからなのか、ニオはためらいがちに言った。

「正直に言うと、俺もおまえには恋太朗としての生を期待していた。あいつは恋太朗と出会って変わった。良くも悪くもな。鬼の寿命は長い。人間と添い遂げるなんて無理な話だ。それでもあの頃のあいつらはすげえ楽しそうだった。あいつのあんな笑顔になることはこの先ないだろうな……」

 最後のほうの言葉にちからはない。楽しかった思い出を語るにはふさわしくない声を聞いた。

 だがまだ半分程度だろう。ぼくに、恋太朗に執着する理由はその程度ではないはずだ。

「転生したぼくにこだわったのにはまだ理由がありそうですね」

 ニオは怒りとも悲しみともわからない表情で愛之介を見やった。

「ここから先を話すにはおまえの答えがいる。さっきまでの話は俺のわがままだが、これを聞くかどうかはおまえしだいだ。何度でも言ってやるが、あいつはもうここへは来ない。おまえの前に姿を現すことはない。それでも、あいつのことを聞くか?」

 おそらくニオはいまのぼくには何も期待をしていない。あの社へ連れて行ったのが彼女の最後のチャンスだったのだろう。それなのに、依然としてぼくはぼくのままだった。もうぼくが恋太朗になることはない、そう見限ったんだ。ぼくは役目を終えた。代役のままで舞台の隅に残り続けることはない。退場するならいまがその時だ。

「ぼくは……」

 いや、そうじゃない。役目は終えたかもしれない。

 でもぼくはまだここにいる。

 恋太朗ではなく、愛之介として。

「聞きます。まだ言えることはあるはずです」

「そうか……」

 ニオはそれだけ言ってしばらく黙り込んだ。よほど憚られる内容なのか。それとも、彼自身にとっても辛い記憶なのだろうか。恋太朗とは兄妹で付き合いがあったはずだ。何度か姿を見たなんて関係が無いような言いまわしだったけど、彼もきっと恋太朗を友と思えるほどに良く思っていたに違いない。

「森に社があったろ。あそこはふたりが良く遊んでいた場所でな、同時に俺たち鬼の住む領域との境目でもある。常に結界を敷いてるから人間は越えられないんだが、どういうわけか恋太朗がその境目を抜けてこっちへ来ちまったんだ。おそらく妹を探しに迷い込んだんだろうが、運悪くほかの鬼どもに見つかっちまった。そこで恋太朗の運命が終わったんだよ」

 ある程度予期していたものではあったが、思わず愛之介の表情が険しくなる。

「まっ、そういう反応になるよな。心配すんな、取って喰ったわけじゃねぇ。わけじゃねえが……」

 ニオは言い淀んだ。時計の音が響くなか愛之介は言葉を待った。

「鬼は人間の生命力を奪うことができる。もともと寿命は長いほうだが、そうすることでさらに寿命を延ばすこともできてな。むかしはやりたい放題だったらしく、そのちからで無為に人間の命を奪うような輩がたくさんいたらしい。いまはちゃんと規律があるから滅多なことはないんだが」

 そこでニオはまた口をつぐんだ。まだ続きがあるはずだが、先の言葉はでてこない。

 その生命力を奪うというちからを恋太朗に使うことになったのだろう。それぐらいはこの心境でも想像できる。言うことをためらうほどのことだとは……

 そこまで考えた愛之介は、ふとある可能性に行きつき、恐る恐る聞いた。

「まさか、彼女が恋太朗にそのちからを使ったんですか?」

 ニオは答えず、ただ頷いた。

「そんなことを……」

「しょうがねえ。領域内に入ってきた人間に対処するのは、その原因を作ったと思しきやつがやる決まりだ。恋太朗と接点があった鬼はあいつと俺だ。より関係の深いほうってなったら、あいつがやるしかなかったんだ」

「親しい相手を自らの手で……」

 その心情は察するに余りある。彼女がいったいどんな思いでぼくのところへ来たか。どんな気持ちでこの姿を見ていたか。何を願ってあの社にぼくを招いたか。

 あの時、社から去る時に、ぼくが追いかけてくることを期待しただろうか。

「ニオさんならどうしましたか」

「なにがだよ」

「規律とはいえ、親しい相手を手にかけることはできましたか?」

「さあな。俺はそういう状況になったことがなくてな。だが、もしもそんな状況になったとしたら、その規律を変えてやるよ。俺は嫌なことはやらない主義だ」

「そうですか」

 それを聞いた愛之介は気持ちが楽になったような気がした。

「それは頼りになりますね。お話しありがとうございます」

「いいさ。半分は俺が話したかっただけだ。気持ちのいいもんじゃなかったろうし、悪かったな」

 ニオは去り際にもう人里には来ないだろうと言い残した。

 再びひとりになった。

 そして日が暮れ始めたころ、ほろほろと雪が降り始めた。何度目かの雪。立ち尽くす男は初雪のあの日を思い出していた。

「……もみじ」

 それから、思うままに山の方へと歩き出した。もうすぐ夜の帳が降りるのも構わずに、まっすぐに歩く。

 すっかり暗くなった山道は闇そのものだった。手元のわずかな明かりだけを頼りに歩き続ける。

 そうして迷うことなく社へと辿り着いた。彼女とここで遊んでいた景色がよみがえる。

 男は社のそばを抜け、茂みをかき分けてさらに奥へと入っていき、そのまま帰ることはなかった。

 わたしは死神候補生七番。

 名前はまだない。というより持てない。

 見習いである候補生のうちには名前を持つことは許されない。

 一人前の死神になって初めて名前をもらえる。

 その名前もあてがわれるもので、自分で決められるものじゃない。

 死にゆく命に触れる毎日。

 つまらない。あぁ、つまらない。


 * * *


 今日から担当するこの田舎は人口も少なくて、高齢者ばかりの村だった。

 ほっとけばいずれ廃村するような僻地。わざわざ死神が出しゃばらなくてもいいのに。

『こんな何もないところ、ほとんど死にそうなやつばっかじゃんか』

 でもやることはやらないと。また怒られちゃう。

 死神の少女、候補生七番は漆黒の大鎌を携えて村を散策する。フードをかぶり上から下まで黒でコーディネートされ、絵にかいたような死神然とした恰好はとても目立つ。しかしそれも見えていればの話だ。

 ちからなく持った大鎌を半ば引きずるようにしていて、存在感のある恰好と態度が噛み合っていない。そんな気怠そうな少女の姿は人間には見えていない。死神から意図して接触をしない限りは見えないし、触れられることもない。

『たしかこの家だったよね』

 目的地へとたどり着いた少女はしばし民家を眺めた。

 ブロック塀と生垣で囲まれていて、外から塀の中は覗えない。だが自分の姿が見えていないことをいいことに、そのまま遠慮なしに敷地へと入り込んだ。

『きょうは仕事休みらしいから居ると思ったけど、気配がない。もう死んだとかないよね?』

 不安が口をついて出たがもちろん返事はない。

『しょうがない、どっかで時間を潰してまた来るか。こんな辺鄙なところに娯楽があるとは思えないけど』

 少女がため息交じりに引き返したとき、視界に人影が飛び込んできた。ぶつかることはないが思わず体ごと避ける。人影を改めてみると探していた人物だった。

 色白の女性で少し高い身長。身なりは貧相だったが清潔感はかろうじて保たれていた。ぼさぼさの黒い髪は短めで中性的な顔立ちのため、男性と間違われそうでもあった。聞いていた印象とはたいぶ違ったが、間違いなく死の対象者だ。

『こんな近くにいて気配が感じ取れないなんて、時期早まってんじゃないの』

 すると女性が足を止めた。死神の少女はびっくりして思わず後ずさる。聞こえた? そんなはずはない。まだ干渉してないのに。

 女性はきょろきょろと辺りを見回すが、首をかしげると家の中へ入っていった。

『もしかしてわたしの気配に気づいてる? だとしたらほんとに死期が早まってるかもしれない。のんびりしてはいられないな』

 死神の少女は深呼吸をしてから、気持ちを切り替えて民家のチャイムを鳴らした。はずだったが辺りは静寂を保っていた。まさか壊れてる?

「えぇ……めんどくさ」

 死神の少女は溜め息を吐いて小さく唸る。いったん塀の外へ顔を出し人がいないことを確認すると、改めて玄関へ向き直る。

 おもむろに玄関の戸へ手をかけて、そのまま横へ滑らせた。鍵はかかっていないようだ。

「アサギリミレイ!」

 少女は控えめながらも通る声で呼びかける。ガシャンと奥から何かが落ちた音がした。

 そのまま待っているとさきほどの女性がおそるおそる顔を覗かせた。

「あのぉ、どちらさまですか……」

 怪しむというよりは不可解というような面持ちだ。来客など滅多に来ないのだろう。

 少女は決まり文句を言おうとするが、不慣れなのか照れなのか少し言い淀む。

「わ、わたしは死神だ。おまえはもうすぐ死ぬ」

 そう言うと強がるように控えめな胸を張る。

 女性はきょとんとして動かない。やがてパァーっと顔を明るくしたと思ったら部屋から出てきて、仁王立ちする死神の少女の手を引く。

「ずっと待っていたわ! どうぞ上がってください。さあ」

 満面の笑み。

 手を引かれた少女はきょとんとしていた。

「初めまして死神さん。私は朝桐美嶺です」

「知ってるわよ! さっき呼んだでしょ」

 終始にこにことしているミレイに死神の少女は困惑していた。

 これまで死神と名乗った時の反応は笑われるか心配されるかだった。喜ばれるという反応はいままでにない。言葉にならない気持ちがつのり居心地が悪い。

「お客様に出せるようなものはお菓子くらいしかないのだけど、死神さんはお菓子は好きかしら? それともなにかリクエストがあれば買ってくるわ」

「何もいらない。いいからそこに座りなさい」

「ほんとに? あ、でも飲み物くらいは出したほうがいいよね。私はジュースとか飲まないからお茶くらいしかないんだけど」

「す・わ・り・な・さ・い!」

 それなりの怒気を含んだ少女の言葉にミレイはしゅんとして座布団に座る。

「ったく……おまえ、わたしがなんなのか分かってるの?」

「死神さんでしょ? どうみても」

 ミレイは黒ずくめの少女を見つめ、傍らに置いてある大鎌に目をやる。

「うん、まあそうなんだけど。その通りなんだけど、そこまであっさりされると甲斐がないわね」

 死神という立場に少なからず誇りを持っているためか、怖がられないことにがっかりする。いや、がっかりしている場合じゃない。さっきからの反応をみる限り、アサギリミレイはなにか変だ。ひょっとしたらまずいことになってるかもしれない。

「ねぇ死神さん」

「なによ」

「私のことを迎えにきたんでしょ?」

 やっぱり。これはまずい。本人がすでに自覚してる。ここしばらくはなかったから油断してたな。まぁ油断もなにも、わたしが気を付けてどうにかなるもんじゃないんだけど。

「ええ、そうよ。おまえはもうすぐ死ぬ。だからわたしが来たの」

 それを聞いたミレイは笑顔のまま喜んだ。

「やっぱり! そろそろ来てくれると思ってたのよ。ほら、自分の体のことは自分が一番よくわかるって言うじゃない? その通りだと思うの。前々から調子が悪いなあって。だからそろそろ時期なんじゃないかなってね」

 こいつはそうとう重症だな。自分の死期を悟る人間は稀にいるけど、このアサギリミレイは特別におかしい。事前に調べた限りじゃおかしな要因はなかったはずだ。いったい……

「いったい何があんたをそうさせてるの」

 ぽつりと呟いた言葉はミレイには届いていない。

「死神さん?」

「アサギリミレイ、おまえはもうすぐ死ぬ。その時までわたしが近くにいる。だから、安心するといいわ」

「ええ。ありがとう、死神さん」

 ミレイの表情はやわらぎ本当に安堵しているようだった。

「あ、名前! 死神さんの名前は? ずっと死神さんって呼ぶのも不便でしょ? 名前はなんて言うのかしら」

 こいつは死神と仲良くなるつもりなのか。本当に、どうしてこうなってるんだ。

「名前はない。好きに呼んだらいい」

「好きにって言われても。いつもはなんて呼ばれてるの?」

「……七番」

「ななばん? じゃあナナちゃんって呼ぶね!」

 好きに呼べと言ったけどそれはあまりにも安直すぎない? ちゃん付けされるような年齢でもないし。

「よろしくね。ナナちゃん」

 予想以上にめんどくさいやつだ。さっさと終わらせてこんなつまらない場所からは早く帰りたかったけど、これは長引きそうだな。とはいえ匙は投げられない。なんとかしないと。何のためにわたしがここにいると思ってるんだ。



 朝桐美嶺。二十歳。母親はミレイが高校生の時に別の男を作って家を出た。残った父親もしばらくして他界。父方の祖母に引き取られるがミレイが二十歳になった今年にその祖母も他界。この辺境の地で孤独の身となる。

『死ぬのには事欠かない環境だな。まったくうっとうしい』

 死神の少女、ナナが毒づいていると目的地の村役場に到着した。

 ミレイの仕事場だというが、あんなんでちゃんと仕事できてるんだろうか。

 あれだけ人の話を聞かないのに、話を聞くのが仕事の役場では役に立たないのでは。

 ナナは入り口の自動ドアの前に立った。しかしドアは動かない。はっとして姿を消していることを思い出し、改めてドアすり抜けるとミレイの姿を探す。手入れのされていないぼさぼさ頭はすぐに見つかった。くたくたのスーツ姿は仕事ができそうな雰囲気ではない。愛想よく対応をしてはいるが、相手が困惑してる様子が見て取れる。案の定だった。

 しばらく遠巻きに観察していると、同僚と思われる男の職員がミレイに話しかけていた。職員にたいしも相変わらずの愛想で笑顔を振りまいている。ミレイはみすぼらしい恰好だがそれなりの容姿だ、男もまんざらではなさそうな感じだった。

『資料にはなかった情報だな。ったく、調査班はちゃんと働いてほしい』

 それから定時になるとミレイは職場を後にした。帰宅すると思いきや方向が違う。

『なんだ、寄り道か?』

 それにしてはどんどんひと気のない道を進んでいく。どこへ向かっているんだろう。

 追いかけることしばらく。目的地なのかミレイは一度足を止め、そのままゆっくりと敷地へ入っていく。

『共同墓地……ミレイの家族はこの村に埋葬されてるってあったけど、ここがそうか』

 ナナは敷地に入ろうとするが、思わず足を止める。

『よりによって墓地か……』

 手にかいた汗を拭って深呼吸をする。まるで戦場に赴くように気を張った状態を作る。意を決してナナはミレイの後を追った。

 日も落ちかけている時間。僅かな明かりが頼りだったが、ミレイの足取りは迷いなくしっかりとしていた。そして再び足を止める。

 ミレイが見つめる墓石に掘られた名前は、やはりミレイの家族のものだった。手ぶらでやってきているから、なにか特別なことではないのだろう。買い物に寄るのと同じ程度の感覚で墓地へやってきている。しかも灯りほとんどなくなるこの時間だというのに。

『そんなに、死にたいのかしら』

 死ねば家族に会えるとでも思っているのか。それとも寂しさから逃げたいだけなのか。あの笑顔は気丈に振舞っているだけで、ほんとは何度も枕を濡らしているのだろうか。

 それから時間にして数分、ミレイは墓石の前でただ立っているだけだった。

 満足したのか、何をするでもなくその場から立ち去る。

 ナナはその姿を見送り、追いかけることはしなかった。そして墓石の前に立つ。

 ミレイの家族の名前が掘ってある。

「わたしはまだ見習いだから、死者と対話することはできないの。ごめんなさい」

 ナナはそう呟いて、墓地を後にした。



 翌日。ナナは再び村役場に来ていた。

 ただ今回はミレイを探しにきたわけじゃない。目的は別にある。

 ナナは姿を消したまま中を歩き回った。きのう見た場所とは違うところで彼を見つける。

『さて、うまいことひとりになってくれないかな』

 きのうミレイと話しをしていた男の職員はパソコンとにらめっこをしていた。

 中肉中背、きっちりセットした髪にパリッとしたスーツ。顔の印象はいたってふつう。とりたてて悪い印象ではないが記憶にも残らなさそうだ。

 熱心に仕事をしているようで、せわしなくマウスを滑らせキーを叩いている。適度に体を伸ばして休んではいるが、いたって真面目な仕事風景だった。

『つまらない。人が頑張る姿はもっとすてきなものだと思ってた』

 結局、彼がひとりになることはなく終業時間になった。

 ナナは帰宅する彼のあとを諦めずに付いていく。

 村役場からあるていど離れたところでひとけがなくなり、彼ひとりとなった。

 ここまでくればもういいか。

「ヤライタクマ!」

 背後からの声に男はびくっと肩を震わせて、なにごとかといったような表情で振り返る。

 目の前にいる大鎌を持った少女にさらに唖然としていた。

「えーっと……俺になにか用かな」

 かろうじてでた言葉はじゃっかん引いていた。

「ま、待て。そのかわいそうなものを見る目はやめろ。そういうのじゃない。わたしは死神だ。だからこんな格好をしている」

 しかし言い訳がましい言い方がさらに誤解を生んだようだ。

「そう、なんだ。えっと、家はこのあたりなの? よかったら送っていくよ」

「違う、そうじゃない。なぜおまえもミレイもわたしを子供扱いするんだ!」

 ナナは憤慨しているが、男はそれよりも出てきた名前に関心を示す。

「もしかして、美嶺ちゃんの知り合い?」

「そうだ! 少しは話を聞く気になったか!」

「あー……うん、そうだね?」

「なんで疑問形だ!」


 住宅地の一角に建つアパート。ナナは夜来と書かれた表札を前にしていた。

「おいおまえ。会ったばかりの女を迷いなく家に連れ込むのは感心しないな」

「そんなことはしたことないよ」

 タクマは愛想よく答えた。いままさにしてるだろ。いやまて。まさかこの男、まだわたしを子供だと思っているんじゃあるまいな。

「お腹空いてない? せっかくだからきみの分も作るよ」

「死神は空腹にはならないが、せっかくだから食べてやろう」

 男のひとり暮らしとは思えないほど片付いた室内。ナナはクッションをひっぱり腰を下ろす。ふと持っていた大鎌が邪魔だと気付き、消してみせる。

 本棚にはミレイの家にはないような漫画のたぐいが並んでいた。なんとなく一冊を手に取りページをめくる。気づけば二冊目へと手を伸ばし、そして三冊目で、

「できたよー」

 タクマがテーブルに料理を並べながら声をかけた。

 ナナは慌てて本を片付けて居住まいを正す。

「おぉー」

 並んだ料理を見て思わず感嘆の声がでた。

 ごはんとみそ汁、肉じゃがに漬物といった和食の定番。とてもひとり暮らしの男が作るメニューではない。

「おまえ、生活能力高すぎやしないか」

「そうかな。この村で暮らしてるとこれぐらいはできるようになるよ」

 ナナの脳裏にぼさぼさ頭が浮かんだが、考えないことにした。

 出された料理をあっさりとたいらげたナナは満足げに寝転がっている。

「口に合ったようでよかった」

「なかなか美味かったぞ。さて、そろそろ帰るか」

 そう言ってナナはおもむろに立ち上がる。

「え?」

「なんだ?」

「俺になにか用があったんじゃ?」

「あっ」

 しまった、食事が美味くてすっかり失念していた。このまま帰ったらただ飯をたかりに来ただけじゃないか。

「もちろんそうだとも。これからその話をするところだ」

「でもいま」

「いいからそこに座れ」

「座ってるよ」

「そうだな! うん、わたしが座ろう」

 ナナはちょこんとクッションに座りなおした。

 こほんと咳払いをして、気を取り直したナナはタクマへ視線を向ける。

「もう察しているとは思うが、おまえにはミレイについて話しておくことがある」

「それなんだけど、どうして俺に話すんだ?」

「いま説明するからまあ聞け。さて、結論から言おう。アサギリミレイは間もなく死ぬ。死因については言えないから聞くな」

「ちょ、ちょっと待った。いきなり死ぬとかなんなんだ。本気で言ってるのか?」

 取り乱すタクマをよそにナナは淡々と続ける。

「冗談で言えることではないぞ。いつかは死ぬんだ、それがちょっと早くてたまたま時期がわかっているだけだ。悲観することじゃない」

「……信じられないな」

「とうぜんだ。死を簡単に受け入れられるわけがない。当事者ならなおさらだ。だからおまえにこのことを話している」

 タクマは疑心の眼差しを向ける。

「いったい俺にどうしろっていうんだ」

「さあな。おまえのやりたいようにすればいい。助けるのも良し、傍観するもの良し。なにをしても責められないし咎められない」

「……きみは死神だといったね。だったら美嶺ちゃんが助かるのは都合が悪いんじゃないのか? どうして俺にそれを教えたんだ」

 ナナは答えない。無言のまま立ち上がって今度こそ部屋を出ていこうとする。

「きみの言うことが本当だとしたら、美嶺ちゃんが死ぬのはきみのせいってことになる。それなら俺はきっときみのことを許せないと思う」

 タクマの悲痛な声にナナは嬉しそうに言った。

「それでこそ死神冥利に尽きるよ」



 数日後。いつものようにナナはミレイの家に上がり込む。ところが居間に入ったところで絶句した。ミレイが倒れている。

「ミレイ!」

 駆け寄って体を抱き起す。息はある。ただ気を失っているようだ。

 まだ生きていることにナナは胸をなでおろす。

 ミレイの部屋から布団を引っ張り出して居間に敷くと、ミレイを寝かせた。顔色は悪くないけど、すぐには起きなさそうだ。

 ふと、玄関の方に気配を感じた。しばし意識を向けるが、入ってくる様子はない。誰だかは言うまでもなく、

「呼び鈴は壊れているからそのまま入ってこい、ヤライタクマ」

 聞こえるように声を張る。

 ナナの声が届いたようで、戸が滑る音がした。恐る恐るといった足音が居間へとやってくる。顔を覗かせたタクマはふたりを見つけて複雑な面持ちを向けた。

「えっと、お邪魔してます」

「かまわん。いいから入れ」

 言われるがままにタクマは畳へと腰を下ろす。視線はちらちらと布団で眠るミレイを見ている。

「来るのが遅い」

 タクマは心外だいう目を向ける。

「呼ばれた覚えはないんだけど」

「馬鹿者。このあいだの問答をなんだと思っている。あれだけ尻を叩いたのに悠長が過ぎる」

「俺だって悩んでたんだ。美嶺ちゃんとはその後も普通に話せていたし、きみの言っていたことを信じられる要素はなかったから。でもなんとなくきのうの美嶺ちゃんは様子が違ってたから、さすがに心配になって住所を調べてから来たんだ」

 タクマの苦虫を潰したような表情。わたしの言ったことを信じなかった自分へか、それともミレイが死ぬ事実を現実のものとして認識をしたからのか。

 ナナは小さく溜め息を漏らす。

「さて、御覧の通りアサギリミレイは意識を失っている。まだ死に至るほどではないが、もう間もなくといったところだ。わたしと会ったことでどうやら緊張の糸が切れてしまったのだろう」

「きみと会ったことでって、それはどういうことだ」

 ナナは姿勢を崩してからゆっくりと話す。

「理由はわからないが、ミレイは自分が死ぬことを予見していた。まれにそういう人間がいるんだ、それは問題ではない。問題はミレイがそれを受け入れていたことだ。

 家族を亡くし、この辺境の地で孤独の身となれば不安にもなるというもの。お前は仕事場でのひたすら笑顔を振りまいているミレイしか見ていないだろうから、焦燥感にも気づくことはなかっただろうが。ミレイがそれでも生きていたのは死ぬ理由がないからだった。いずれ死ぬとわかっていても、それがいつどんな形でやってくるかまではわからなかった。

 だから漠然と死を待っていた。死ぬまで生きるつもりだった。

 だがそこにわたしが、死神と名乗るものが現れた。ミレイはわたしを見た時言っていた。待っていたと。たぶん安心したんだ、これでやっと死ねると。最初こそ興奮してわたしに執着していたけど、それも落ち着いたいま、ミレイは黄泉への道を迷うことなく歩いている。

 まだ息はある。けれど生きるかはわからない。

 だから、ここからなんだ」

 ナナは自分をまっすぐ見据えているタクマへと視線を流す。

「ここからはおまえがミレイをどうしたいか。それ次第だ」

「決まってる。このまま黙って美嶺ちゃんを死なせたりはしない。たとえきみを相手にしようともだ」

 タクマの言葉に迷いはない。強い意志のこもった瞳にナナはふっと笑う。

「相手にしてもだなんて、まさか戦うつもり? 漫画じゃないんだから血で血を洗うようなことにはならないよ。それに漫画だとしたら死神のわたしが勝つに決まってる」

「……戦うんじゃないなら、きみはどうするんだ。死神と言うからには彼女の命を取ることが役目なんじゃないのか?」

「だとしたらおまえをここまで焚き付ける必要はなかっただろ。放っておけばミレイは死ぬんだからさ」

 ナナの言葉にタクマが表情が少しやわらいだ。

 緊張していた体もすっと弛緩する。

「じゃあ、きみは美嶺ちゃんのことを」

「どーこーするつもりはないよ。このままふたりで変わらぬ日常を送るでもラブコメでもやっててくれ。わたしはお役御免だよ」

「そうか。良かった。死神とはいえ、ちいさな女の子に手を挙げるのは気が進まなくてさ」

「ちいさくもないし女の子って歳でもない! まったくそんなにおこちゃま扱いしたいのか。まぁいいさ。それじゃヤライタクマ、代わりというわけじゃないけど、わたしの頼みを聞いてくれ」

 さっきまでの毒気はどこへやら、ナナはすっかりオフモードに切り替わっていた。

 タクマもつられて緊張が完全に解けてしまっている。

「なんだよ。美嶺ちゃんを助けてくれた礼だ。聞いてやるよ」

「まだ助かると決まったわけじゃないけどな。頼みというのはな、また飯を食わせろ。おまえの料理はなかなかだ、帰るまえにまた味わっておきたい」

「そんなことでいいならまかせてくれ。って言ってもここだと勝手がわからないからうちに来るか?」

「だから女をあっさり家に呼び込むな。少しはわたしも手伝うから、材料を買って来い。もちろんお前持ちでな」

「わかったよ。ちょうど昼時だし、ぱぱっと買出ししてくるから待ってな」

 タクマは喜びを隠し切れずほころんだ顔のままミレイの家を後にした。

 残されたナナは静かに寝息をたてるミレイへと目を落とす。

 やがてミレイが目を覚ました。微睡んだ眼はきょろきょろと泳いでいる。

 ぼやけた視界でナナを捉えると思わず頬が緩んだ。

「やあミレイ。気分はどうだい」

「ナナちゃん。なんだか不思議な夢を見たの。私がこの先もずっとずっと生きていて、誰かと肩を並べて過ごしていたの。たぶん男の人だったと思う。でもそんなことないよね? 私はこれから死ぬんだものね」

 すがるように、願うように、ミレイは言った。

 ナナは笑顔で答える。

「そうよ。もうすぐあんたは死ぬ。わたしがこの手で連れていってあげる。だから安心しなさい」

「そう、よね。良かったわ。ナナちゃん。ありがとう。ずっと待ってたの。私を家族のところへ連れて行ってくれる人を。もう、最後だから、言ってもいいよね。さみしかった。ずっとひとりで。だから」

「わかってる。もう何も考えなくていいの。わたしに任せなさい。さあもうひと眠りしましょう。起きたらすべてが変わっているわ」

「うん。ありがとう。私にとってナナちゃんは、神様だよ」

 そうしてミレイは再びまぶたを閉じた。

 それを確認してから、ナナはおもむろに立ち上がると大鎌を取り出した。

 両手で持ち、正面で構える。

 そのまま大きく振り上げた。

「あなたと過ごした時間、少しは楽しかったわ」

 言うと同時に、大鎌はあっけなく振り下ろされた。


 * * *


 死神の少女が冥界に帰ったところ、早々に声をかけてきた男がいた。

「おう七番。またやったらしいじゃないか」

 声の主は同じ候補生の八番だった。彼もまたフードをかぶっているため顔はよく見えないが、同じ候補生だから幾分の見分けはつく。

「なによ。わたしはちゃんと任務はこなしてる」

「ありゃこなしてるとは言わないだろうよ。おれたち死神は命を管理するのが仕事だ。これから死ぬ奴ならちゃんと死ぬのを見届けなきゃいけない。ところがおまえときたら、なんだかんだと理由をつけて生かしてばかりじゃないか。今回もそうだって聞いてるぜ」

「そう思ってるなら見解の相違ね。わたしは死神の仕事は命を選ぶことだと思ってる。死ねばいい奴を生かしたりはしてない。まだ生きるべきだと思うやつを生かしてるだけ」

 少女はいたって真面目に答えているが、男の方はけたけたと笑っている。

「そんなこと言って、おまえが担当した場所で死人を出したって話は聞かないぜ? まっ、おまえがそれでいいなら文句はねーけどよ。ただあんまりルール無視してっと、グレーゾーンからはみ出ちまうぞ。気を付けるこった」

「ご忠告どうも。ありがたく聞き流させてもらうわ」

 それを聞いて男はまた笑い、軽やかに去っていった。

 少女は溜め息を吐いてひとりごちる。

「ほんとうに神様だったらよかったのにな」