ぼくが初めて心の底から涙を流したのは、初めて心の底から女の子を好きになったときだ。

 まだ色恋のイロハも知らなかったぼくは、為す術もなく頬を濡らすばかりだった。

 ***

 友達とわいわい騒ぐのが好きだった。だから高校で初対面の相手にも、ずかずかと土足で踏み込んでいくほどの遠慮のなさをみせていた。

 そうやって輪を広げていっていつしかクラス中、いや学年のほとんどの人と仲良くなっていく。

 それはぼくがまだ短い人生で身につけた処世術だった。

 ほどなく、ほとんどのクラスメイトと挨拶をする仲になったところで気づいたことがある。

 ひとりだけ、まだぼくに声をかけてこない女の子がいる。

 肩ほどの黒髪、すらりと背が高くてスポーツ選手を思わせるスタイルが羨ましい。

 それでいて日に焼けてない肌は彼女がインドア派であることを語っていた。

 三島結奈《みしまゆうな》。友達に聞いた彼女の名前だ。

 ぼくがこれだけグループの隔たりも作らず、のべつ幕なしに輪を広げているというのに、向こうのほうから気になって輪に入ってくる素振りはない。

 たいていは賑わいの中に身を置きたがるものだと思うのだけど、それがどうしたものか。あの子はぼくには目もくれず粛々と学校生活を送っているではないか。

 これは忌々しきことだ。このままではぼくの目的に気づかれてしまう。

 いや、あの一件を除けば気付かれたことはないのだから、そこまで憂慮することはないと思うけれど、バレてしまったらこれまでのことが水泡に帰してしまう。

 なんとしてもあの、三島結奈を取り込まなければ。

 それからぼくは彼女を観察した。

 無論、じろじろと嘗め回すように見るような真似はしない。

 友達との会話の中で自然に目を向ける。教室内で人を探すように視線を送る。景色を眺めるように視界に収める。

 きっといまのぼくなら上手にカンニングができることだろう。

 そうして得た情報からわかったのは、三島結奈は意外と交流が多いということ。

 クラスのリーダー的存在のぼくほどではないけれど、かなりの人数が彼女を頼り話しかけていた。

 とはいっても、親しげに話している感じはなく、なんというか事務的な対応が多い。受付と来賓みたいなやりとりだ。

 話しかけていた友達に彼女と何を話していたのかと聞くと、宿題の質問やテストの範囲など、授業の話が主だった。

 聞くと三島結奈は大変に成績優秀だそうで、クラスメイトはその辺りで頼りにしているようだ。

 ぼくも勉強には秀でていると自負をもっているが、彼女には及ぶところではないのだろう。ぼくはそういった質疑を受けたことはあまりない。たんにぼくにそういう印象がないからとも考えられるけれど。

 どうやらそれなりの容姿で成績も良し、加えてそれを鼻にかけることもない凡庸な振る舞いが彼女の評価を高めているようだ。

 このぼくと似通う点はいくつかあるから、彼女が周囲の信頼を得ているのは腑に落ちるところではある。

 ただ一点の違い、三島結奈は究極の受け身というところが気にかかる。

 周囲から求められた時に回答し、自ら首を突っ込むような真似はしない。それなのにあれだけの信頼を維持しているのは驚くばかりだ。

 ぼくはといえば、土足で踏み荒らすことで良くも悪くも印象を植え付けている。こうでもしなければ他人に存在を認めてもらうのは大変に困難なものだ。

 だけど三島結奈はただ待つだけでこれ成している。

 いったいぼくと彼女のどこに差異が生まれているというのだろうか。

 なんとしてもあの、三島結奈を取り込まなければ。

 悠長に構えていられないと、ぼくは三島結奈に先手を打って出た。

 午後の授業が終わりあとは帰宅するだけ。いつもの友達に挨拶をするよう、自然に、悠然と、明朗な面持ちで自席に座っている彼女に声をかける。

 ぼくを視認するや少し驚いたように「……なにか用でも?」と返してきた。

 彼女とは視線が合ったことはあっても直接言葉を交わすのは初めてだ。まずは自己紹介をと思い口を開こうとしたら「阿佐美真尋《あさみまひろ》でしょ。しってる」と当たり前のように言った。

 驚いた。ぼくの存在をちゃんと認識していながらこれまで関わらずにいられたのか。

 少し怯みながらもぼくは会話を投げた。

 ありきたりな世間話を織り交ぜて彼女のことを聞き出そうとはしてみるものの、返ってくるのは「そうね」「うん」「それで?」「そうなんだ」といった淡泊なリアクションばかり。さすがに不安の影が差す。

 言葉に詰まりわずかの沈黙。すると「私は帰るけど」と立ち上がる。

 ぼくを見るその目はどうするのかと尋ねているようだ。涼しい顔をしている彼女に負けじと平静を装い、ついていく意思を示す。

 ふいっと立ち去る彼女のあとをぼくは追いかけた。

 三島結奈は電車で通っているらしく、駅までは歩きだった。ぼくは自転車を手で押しながら彼女の隣に並ぶ。

 道中、あれこれ質問をぶつけてみるものの明瞭な答えは返ってこなかった。

 どうやら彼女は学業にとても真面目なようで、娯楽関係の問答に興味がないのが原因だろう。

 結局なんら収穫はなく駅までたどり着き、その日は別れとなった。

 ***

 それからも三島結奈への接触は続けていた。

 少しずつ会話のキャッチボールができるようになってきたある日。

 ホームルームが終わり帰り支度をしていたところに彼女がやってくる。「ちょっと付き合って」思わず硬直した。彼女のほうからぼくに声をかけてきたのはこれが初めて。なぜだか高揚する気分に戸惑いを覚える。

「聞いてる?」ぼくは慌てて首を縦に振る。「じゃ外で待ってるから」そう言って彼女はすっと教室を出ていった。

 あとを追いかけるように昇降口までいったところで彼女の姿をみつけた。

 ぼくに気づいた彼女は「こっち」とすれ違うようにまた校舎の中へ戻っていく。

 不思議に感じながら踵を返し付いていった先は三階の生徒会室だった。

 北側の端っこにあるこの教室にくる生徒はほとんどいない。近くは資材室だったり空き教室だ。生徒会の人間でもない限り用もない。

 彼女は鍵を取り出してあっさりと中に入る。生徒会の人間ではなかったはずだけど。「友だちが生徒会にいるから頼んだの」それは職権乱用では。

 当然ながら誰もいない室内は行事の小道具や書類と思われる山で乱雑だ。

 ふたりっきりという状況に身体が強張る。「聞かれたくない話だと思うからはいって」そう言われ気もそぞろに戸を閉めた。

 いつもならここぞとばかりに口が回るのだけど、今回はそうもいかない。彼女からの呼び出し。加えてこの状況。向こうの様子を窺うというぼくらしくない思考に陥っている。

「時間取ってわるいわね。そろそろ聞きたいことがあって」改まって言われるとますます緊張する。

 ……うん? ふと彼女の言葉に違和感を覚える。

 聞きたいこと、つまりぼくが説明するなにか、それが聞かれたくないことだと言った。ぼくがなんて答えるか見当がついている口ぶりだ。なのにそれを敢えて聞き出すということは確信はないということか?

 立ち尽くし憂慮しているうちに彼女が話しだす。

「このさいだから単刀直入に聞くけど、私にどうしてほしいの?」彼女はぼくをまっすぐにみつめる。「友だちになるなんてのが目的じゃないでしょ。ほかに何か理由があると思ってるけど」

 その瞬間、ぼくは血の気が引いた。

 まさか気づかれた……?

 いやそんなはずはない。ここまでそれらしいミスはしていない。

 誤魔化そうにもすっかり動揺しているざまでは口八丁も鳴りを潜めてしまっている。

「心配しなくてもそれがなにかは私はわかってない。言いたくないならそれでいいわ。でも、言わないならこれ以上私を巻き込まないで。友だちごっこはほかのひとたちとやっててちょうだい」押し黙ってしまうぼくに彼女は追い打ちをかけた。

 なにかはわかっていない。でもなにかがあるというのを感づかれている点ですでに手遅れだった。

 これは隠しきれない……? かりにこの場を脱しても、ぼくへの疑念を持たれたままでは意味がない。明かすしかないか……?

 それだけは絶対にイヤなのに。でもこのままだとあまりにも……。

「話すことはなさそうね」静けさに響く彼女の声。その顔は悲哀を含んでいた。何を悲しんでいるのかはわからいけど、その表情がぼくの心にぐさりと突き刺さる。

 彼女は深呼吸のような深いため息を吐いた。そして教室を出ていこうと、ぼくの横をするりと抜ける。

 そのときぼくは思わず彼女の腕をつかみ、引き留めた。

 とっさの行動に彼女は目を見開き驚く様子を見せたが、ぼく自身も驚きでそれ以上なにもできずにいる。

 手を離さないぼくを彼女はただ見据えている。

 やがてぼくは絞り出すように話す。

 ぼくはきみのことが好きだ。

 でもだからどうだってことはない。きみとどうにかなりたいとか、そういうことはまったくないんだ。ただ、気づかれたくなくて。でもぼくのことが迷惑だっていうなら、せめて知ってほしくて。

 人生で二度目の告白。きっと彼女は吃驚《びっくり》していることだろう。

 ぼくには二度目でも、彼女は同性に告白されるなんてはじめてのはずだ。

「――私のことがって、あんた女の子が好きなの?」その口調は変わらず平坦なものだった。

 ただ頷くしかない。次に口を開いたらきっと泣いてしまう。みっともなく喚いてしまう。

「そう。それは…………ごめんなさい」つぶやくような声。彼女の精一杯の言葉に感じた。

 顔を伏せ目をそらす。腕をつかんでいた手のちからが抜ける。ぼくはそのまま教室を飛び出した。

 ***

 はじめての告白は中学生のとき。

 その頃はこの感情が他人のもと違うとは思わず、疑わず、行動に移していた。

 そうして小学校からいっしょだった女の子に思いを告げたことが発端だ。

 あのときの彼女の顔を、周囲の視線を、いまでも思い出してしまう。そのたびに胸が締め付けられ、また涙を流してしまいそうになる。

 それからぼくはこの気持ちを隠し、気づかれないように注力することにした。

 友達を増やして男の子とも仲良くする。木を隠すなら森の中というわけではないけれど、特定の子と仲良くするよりは発覚を防げると思う。

 逆に言えば、輪の外からみたら気付かれるかもしれないということ。

 だから周りのひととは仲良くならなければならない。絶対ではないけれど発覚する可能性があるのなら排除しなくてはいけない。

 だからぼくは輪を広げて仲良くならなくてはいけない。

 それはぼくがまだ短い人生で身につけた処世術だった。

 ***

 学校には行かなかった。

 彼女に、三島結奈に合わす顔がない。向こうもそう思っていることだろう。

 ずっと登校拒否をしているわけにいかないけど、きょうばかりは見逃してほしい。

 活発に友達作りをしていた生活のせいか長くは引きこもっていられなかった。静けさのなかにいるとどうしてもイヤなことを考え、思い出してしまう。

 気を紛らわせるため、明るいうちにコンビニへ行こうと外へでる。距離はあるけど自転車は使わず、頭を冷やすために歩いていくことにした。

 沈んだぼくの気分とは裏腹に、曇りのない空が世界を照らしている。

 それでもぼくの心が晴れることは無く、重い足取りのまま道をいく。

 馴染みのコンビニが見えたところで思わず足が止まる。

 ちょうどそのコンビニから三島結奈がレジ袋を提げて出てきたのだ。

 高揚と動揺が押し寄せる。

 なんでここに――駅からは離れている――道すがら来る場所じゃない――話したいことがある――でも向こうは――。

 頭の中をぐるぐると思考が駆け巡る。

 そしてふいに彼女と視線が重なった。

 現実から目を背けたくなる。けれど彼女はそうでなかった。真摯な瞳でぼくの身体を縛った。逃げるに逃げられなくなり、彼女の接近を許してしまう。

「ちょうどよかった、いまからあんたの家に行くところだったの」ぼくの家に? どうして。なんで場所を。「伊万里先生にムリいって教えてもらった」あの学年主任に教えを乞うとは……またなんとも無理矢理なことをする。

「きのうのことでちょっと聞きたいことがあるんだけど」その言葉は再びぼくを凍り付かせるのに十分だった。

 もう――あとには引けない――ここでなにを言われても仕方がないー―受け入れよう――。

 そして――帰ってから泣けばいいー―思いっきり大声で泣いてしまえばいいー―それがいい――。

「こういうの買うのはじめてだから適当に選んだんだけど」そう言ってレジ袋から取り出したのは雑誌だった。

 ぼくがよく読んでいる女の子雑誌。ファッションやら恋愛についてやら、女子が好きそうな話題で構成された雑誌。

 それをパラパラと捲り、三島結奈は言った。

「あんた、どんな子が好みなの?」

 えっ? 思わず聞き返してしまった。

「だから好きなタイプ。どういう女の子が好みかなと思ってさ。雑誌に載ってる子ならわかりやすいかなぁって」

 そう言いながら彼女は雑誌に視線を落とす。

「こういう派手なギャルっぽいのはあんたと同じ系統だけど違う? それとももっとガーリーな感じが好き?」

 いったいなんの話をしているのか。ぼくはまだ理解が追い付かず茫然としていた。

「きのうのことだけど、私が謝ったのは違うからね」

 違う? どれのこと?

「あんたの告白まがいな出来事について謝ったんじゃないってこと」

 ……? じゃあいったいなにへの謝罪だったんだ。

「その……あんたの気持ちも知らないで、いやなこと話させちゃったことによ」

 彼女はバツの悪い面持ちで話した。

「想像だけど、きっとその感情のせいでいままでにつらいことがたくさんあったでしょ。そんなことにも気づけないで、追い詰めるようなまねまでして、傷つけて、ごめんなさい」

 深く頭を下げる姿。混乱する思考のなかで、ぼくの心は動揺しながらも彼女の言葉を飲み込もうとしていた。

 あんなこと言ったぼくを気持ち悪いと思わないのか。

「うーん。びっくりはしたけど、そんなことまでは。あそこまで私に付きまとう理由を知りたかったのが一番だったし」

 つまり、ぼくのことが好きってこと?

「そこまではいってないでしょ。ポジティブめ。まぁきらいではないけど。私と授業以外のことを話してくれる友だちだし」

 驚いた。耳を疑った。

 ここまでぼくのことを話して、それでも三島結奈は友達だといってくれている。

「友だちだから、もっと、阿佐美のこと知っておきたいから。ね、教えてくれる?」

 その言葉でぼくのなかの何かが崩れて、かってに涙があふれてきた。ぼくにも居場所がある。彼女はぼくという存在を認めてくれた。ぼくは往来であることも忘れてみっともなく嗚咽した。

 三島結奈はふっと笑みをこぼし、ぼくに手を差し伸べ言った。

「こんなに天気がいいのに雨が降るなんて、きっと狐の嫁入りね」



 スレンが連れてきた女性は苛烈《かれつ》な人だった。

 短めの黒髪。がっしりとした異国の軍服を着ていて、細身ながらも相応の威圧感は放っている。物腰の柔らかい振る舞いだったけど、彼女の言葉は決して軽くなかった。

 初対面のわたしに開口一番「ずいぶんと繊弱《せんじゃく》な身体つきね、本当にスレンの妹なの?」と良い笑顔で言ってくれやがったのは、しばらく根に持つことになった。

 だけどまぁ、そんな苛烈な女性だからこそ、スレンとの付き合いが続いているのだろう。

 血の繋がった妹ですら、あの愚兄には手を焼くのだから。

 ***

「おにいちゃん。さいきんあの人来ないね」

「うん? メイのことか?」

 朝食の片付けをする隣のスレンが答えた。わたしは頷く。

「城内でちょっとやっかいごとがあってさ。メイにはそれの対処をしてもらってるから、暇がないんだよ」

「ふぅん」

「おまえ、あいつのこと嫌いだったよな?」

 つい頷きそうになるのを自制して、口を動かす。

「嫌いだなんていってないでしょ。ちょっと、苦手なだけ」

「じゃあなんで気にしてるんだ。うちに来たら困るからか?」

「……おにいちゃん、そういうデリカシーのなさは直したほうがいいよ」

「俺は気にしないけど」

「周りの人が気をつかうんだって」

「そうか? わかった、なんとかするよ」

 スレンはいつもの口調で答えた。例によって信用に足りない言葉だこと。

 午後。街へ買い物にでたときのこと。ばったりメイさんと遭遇した。

 さすがに無視をするわけにもいかないけど話したいこともないし気付かなかったふりをするべきか、などと考えているうちに向こうに近づく隙を与えてしまった。

「やっ、妹ちゃん」

「……こんにちは」

「露骨に嫌そうな顔しちゃって傷つくわぁ」

「満面の笑みでなにをいってるんですか」

「えへへ、妹ちゃんに会うの久しぶりだから嬉しくってついね」

 メイさんは恥ずかしがる様子もなくにんまりとして言う。

 この裏表のない感じはほんとうにスレンとよく似てる。似たもの同士でお似合いだっていうのはわかってるけど、改めて認識するとひどい劣等感だ。

「城でのお仕事が忙しいって聞きましたけど、こんなところでなにしてるんですか」

「そうなのよ。ここ数日で城内の備蓄が減りすぎてるの。原因が何か調べてるのだけど皆目見当がつかなくて」

「……メイさんてそんな雑用みたいなことしてるんですか?」

「雑用とはまた心外ね」

「すみません。ス――おにいちゃんの話からてっきり同じ戦闘班にいるのかと」

 メイさんのいた国は軍事国家というところだったらしく、機械兵器の発達した強力な兵力が自慢だったそう。

 過去形なのはすでに彼女の国が滅びているから。スレンがそう言っていた。

 理由までは話してくれなかったけど、きっとわたしが知るべきじゃないことだと思ったからだろう。

「私は元々調査官をしていたからね。もちろん戦闘も人並み以上にこなせるけど、こういう裏方のほうが向いてるのよ」

「調査官って、なにをしていたんですか?」

 聞きなれない言葉につい好奇心がでてしまった。

「あれ、気になるの? 私に興味がある?」

 にんまりとこちらを覗いてくるのがなんとなく癪に障る。でも気になるのだからしかたなく頷いた。

「他国の内情を調べたり、資源のありそうな地帯を探したり、その時々でいろいろ。あんまり気の進まない活動もあったから、ここでの生活はずいぶんと気が楽だわ」

「自分の住んでいた場所がなくなったのにさびしくないんですか」

 瞬間、目を丸くして黙り込んだメイさんを見てしまったと思った。スレンのことを言えないほどのデリカシーのなさだ。

 自分で言った言葉に動揺しているさまがおかしく見えたのか、メイさんは声をあげて笑った。

「やだなぁ妹ちゃん、気にはしてないよ。まさかそんな恣意的《しいてき》なこと言われると思わなくって吃驚しただけよ」

「すみません……」

「気にしてないってば。妹ちゃんは顔色を窺いすぎるから、自然体で接してくれると嬉しいんだけどな」

「それはおにいちゃんみたいになるので嫌です」

「スレンくんほど無垢でいることはないよ。もっと清濁さがあるといいなってこと。妹ちゃんは良くも悪くも清廉すぎる」

「…………そうでもないですよ」

「うん?」

「わたしはメイさんが思ってるほどきれいな生き方はしてないです」

 それだけ言ってわたしはその場から逃げ出した。負け犬のような気分だった。

 ***

 わたし、リズベル・ジークロンとスレン・ジークロンは血の繋がった兄妹だ。

 スレンが兄で、わたしが妹。

 でもわたしはスレンを兄だと思ったことはほとんどない。

 わたしが物心つく前にお母さんは病で亡くなり、わたしは養育院に預けられ、スレンはお世話になっていた宿屋の一室を間借りして生活をすることになった。

 離れて暮らしていた期間が長かったからなのか、わたしの中のスレンはひとりの男の子だった。

 だからたまに顔を合わせることがあっても兄とは呼ばず、名前で呼んでいた。

 そしてあの国王が変わる事件に関わってから、わたしはスレンへと抱いていた感情の正体を知る。

 彼を兄と思えなかった理由がそこにあった。

 これ以上、彼に近すぎるといけない。そう思ってわたしは名前で呼ぶのをやめた。

 そうしてどこか薄暗い気持ちを胸に抱えながら、わたしは生きている。

 ***

 敗走の末にたどり着いたのは馴染みのある宿屋だった。

 年季の入った扉が軋みながら開く。良く言えば落ち着いた、悪く言えば殺風景な室内には客の姿は少なく、顔見知りの主人がすぐに出迎えてくれた。

「リズベル? あんたがここに来るなんてめずらしいわね」

「こんにちは、ザハさん」

「そんな湿った顔してどうしたの。ほらこっち座りなさい。すぐ温かい飲み物持ってきてあげるから」

「……ありがとうございます」

 テーブル席に座って用意された紅茶を手に取る。暖かい。自分の心が冷え切っていたのがよくわかった。

「それで何があったのよ。あんたがわざわざ中層《した》に来るなんてよっぽどのことでしょ」

「わざわざというか、気付いたらここの前にいて」

「なおさら心配になるわね」

 あきれた顔でザハさんがため息をつく。

 わたしはどうしたものかと頭を抱える。本当に気付いたらここまで逃げてきていただけなんだ。

 でもザハさんの言う通り、なにかがあると思ってここへ来たのだとしたら話す相手はひとりだ。

「じゃあついでなので相談してもいいですか」

「ついでとはまたずいぶんな言いぐさね。ほんとあんたら兄妹は口の減らない」

「話せと言ったのはザハさんですよ」

「はいはい。聞いてあげるからちゃちゃっと話しなさい」

 幼いころからザハさんにはお世話になってはいるけど、あいかわらず強面からのこの言葉遣いは慣れないものがある。

 世の中には慣れないものもあるんだなと実感しつつ、わたしはしかたなく思いのうちを話す。

「じつは、スレンのことなんですけど」

「やんちゃ坊やがまたなにかやらかしたの?」

「やらかしてるのはいつものことなんですけど、その……女性を家に連れてきまして」

 それを聞いた途端、ザハさんが姿勢を直した。

「そういう話なら望むところよ」

 嬉々としている理由がわからないのでとりあえず続ける。

「異国の人なんですけど、なんというか女性版のスレンをみているようで。それでふたりとも気が合うらしくかなり仲睦まじい様子なんです」

「うんうん」

「そんな様子をなんというか……見ていられなくて」

「なるほどね。だいたいわかった」

 ザハさんはしたり顔で頷いている。

「冗談は性別だけにしてください」

「やかましいわね! 答えを教える前にひとつ聞かせてほしいんだけど」

「……なんですか」

「あんたはその女のことが嫌い?」

 言葉に詰まる。今朝は苦手だと答えたけど、結局のところそれは嫌いに含まれるんじゃないのか。

 わたしはメイさんが嫌い?

 自問してみても答えは返ってこない。

「……わからないです。はっきりと言えるほど、わたしは彼女のことを知りません」

 そう口にだしてみて気が付いた。

 あぁそうか、わたしはメイさんのことを知りたくないんだ。だから避けようと、考えないようにとしていたのだ。

 スレンと似通った人、知ればきっと好きになってしまう。そうなったらわたしはもう、この気持ちの矛先をどこに向ければいいのかわからなくなる。

「あんたのことだから考えなくていいことごちゃごちゃ考えてるんでしょ。よく聞きなさい、人を好きになるのに条件なんてないのよ」

「な、なんの話ですか」

「すっとぼけてるの? それとも自分の気持ちにまだ気付いていないとか言わないわよね?」

 ザハさんは睨むように身を乗り出してくる。

「……スレンは兄です」

「あんたはそう思っちゃいないでしょ」

 顔が熱くなる。さっきまで冷え切っていたのが嘘のようだ。ぬるくなった紅茶のカップを持つ手がかすかに震える。

「あたしを見なさい。男だけど立派に女をやってる。恥も外聞もなく、こうあるべきだと信じてるわ」

「格好はともかく……ザハさんて男の人が好きなんですか……?」

「失礼ね、どっちもいけるわよ」

「なんで自慢げなんですか」

 こんな大人を相手にしているとわたしの悩みがバカみたいだ。ほんとうにあきれる。

「ところで、答えはなんなんですか? さっき教えてくれるようなこといってましたよね」

「もう半分ぐらい答え出てるんだから、あとは自分で考えなさい」

「ずるい」

「ずるくて結構、ほらもういい時間だから帰りなさい」

 窓の外は夕闇に包まれていた。いつもなら食事の準備をしている時間だ。

 ……帰ろう。わたしのいる場所はあそこにしかないのだから。

 ***

 スレン・ジークロンは兄である。

 それが唯一、わたしを縛る鎖となっていた。

 鎖というのはやっかいなもので、外から縛られるから自分で解くことはできない。

 抗うほどに絡まり、まったく身動きできなくなる。

 抜け出すにはやはり外の手助けがいるんだ。

 そして助けてくれる人っていうは、意外な人物だったりする。

 ***

 家の前まで来て明かりがついているのに気付いた。

「帰ってるのかな」

 この時間に帰ってくるのは珍しいけど、いるならちょうど話したいことがある。

「妹ちゃんおかえり」

「……なにしてやがるんですか」

 我が物顔でくつろいでいるメイさんを見てつい本音が漏れた。

「妹ちゃんが急に去っちゃったから心配でさ」

「あぁ……それは――すみません」

 あんな態度をとったわたしの心配をしてくれているとは。この人にとってわたしはなんなのだろう。

 聞いてみたい気はするけど、それを知ったらいよいよ心が折れそうだ。

「あの……」

「なにかな?」

「――お城の件はもういいんですか? まだ調べてるさいちゅうでしたよね」

「それはいったん片付いたから大丈夫。原因はだいたい特定できたから」

「そう、ですか」

「スレンくんもそろそろ帰ってくるんじゃないかな」

 ならその前にこの人にも言っておかないといけない。

 そのあとの展開しだいでは泣くかもしれない。

 どっちにしてもこのまま泣き寝入りなんていやだ。

「メイさん、聞いてもらいたい――いえ、話しておきたいことがあるんですけど」

「改まっちゃってなにかしら」

 なんだろうこの余裕な感じは。こっちは泣きそうな思いで心を決めたというのに。

「わたし……スレンのことが好きです」

「うん、知ってる」

 ――はい?

「え……あの、おにいちゃんのことを好きだと言ったんですよ」

「そうだね」

「……兄妹としてじゃなくて、その、男の子として好きだってこと、ですよ」

「うん」

「あの……なにかいうことがあるんじゃないですか?」

「言うこと――――おめでとう?」

 いやそうじゃなくてですね。

「うーん、妹ちゃんは私になにをいって欲しいのかな。兄妹なんだからおかしい、諦めろ、そんな言葉を聞きたいの?」

 メイさんの言葉が心に突き刺さる。

 たぶんそうなのだろう。わたしは自分で決められなかった答えをこの人にもらおうとしているんだ。

 理由がほしかった。この想いを断つ理由が。

「期待を裏切るようだけど、そんなことはいわないよ」

「……どうして」

「血縁なんて関係ない、好きなものはしかたないよ。スレンくんが好きならそれでいいじゃない。諦めることもないし、私に遠慮することもないよ。それこそ妹ちゃんの好きにすればいい」

「――なんでそんなこというんですか」

 他人任せとはいえせっかく諦める決心をしたのに。これじゃあなにも変わらないじゃない。

「妹ちゃんのことも好きだから。このまま辛そうな顔の妹ちゃんは見てられないよ」

「そんなにひどい顔してますか……?」

「うん。すっごい仏頂面でかわいくない」

「そこまでですか……」

「だからもっと素直になりなよ。だれかが何かいってきたら私が守るからさ」

 メイさんの笑顔がとてもまぶしい。少なからず歪んでいるわたしにはこんな笑顔はできないだろうと、そう思った。

「わたし、もう我慢しなくてもいいですか?」

「いいよ。私が許す」

 その言葉を聞いた瞬間、身体からすっと力が抜けていく。

 ずっと纏わりついていた重たい空気がなくなっていくようだった。

 冷えた心に暖かい光が差し込むように熱がこみ上げる。

「ありがとうございます、メイさん」

「うん。これからもよろしくね、妹ちゃん」

「あのぉ、さすがにその妹ちゃんっていうのやめません?」

「え! 名前で呼んでいいの?」

 どうしてそんなに嬉しそうなんだ。

「嫌いな相手に名前で呼ばれるのはいやだろうなって、これでも気をつかってたんだよね」

「うぐっ……じゃあもう名前で呼んでいいですから」

「やったー!」

 子供のようにはしゃぐメイさん。ほんとうにこの人は自分に正直に生きているんだな。

 だからこそあれだけ堂々とした振る舞いができているんだろう。

 わたしもこれからは、こんな風になれるだろうか。

「そうそう、リズベル」

 メイさんがさっそく呼び捨てでわたしを手招きした。

 名前を呼ばれたことに少しドキっとしつつ、顔を寄せる。

 そして耳元で囁くようにメイさんが言う。

「許すとは言ったけど、スレンくんはあげないよ」

 その後のことを少し話すと、スレンとメイさんは正式に婚約をした。

 といっても、ふたりとも仕事バカだから家でゆっくりしてる暇はないようだ。

 それからわたしはメイさんに同席してもらってスレンに正直な気持ちを伝えた。

 スレンの反応はあっさりとしたもので「よかったな」と的外れな返事をもらっただけ。いったいだれ目線での言葉なんだ。

 腑に落ちない気持ちだったけど、以前よりはスレンの顔をちゃんと見れるようになったと思う。

 季節が移りゆく中、わたしはこれからもふたりの帰りを待つ。

 ここがわたしの居る場所なのだから。



 気が付くと厳島苑《いつくしまその》はそこに立っていた。

 眼前にあるのは見慣れた街並み。苑の住む街だった。

 整然と並ぶ街路樹は青々と輝き、まだ新しい一戸建てが軒を連ねている。

 慣れ親しんだ光景。ただいつもと違うのは、周りを見渡しても人の姿はない。昔に見せてもらったジオラマの中へとひとり迷い込んでしまったのかと錯覚する。

 がらんとした箱庭に苑はたったひとり、ぽつねんと佇む。でもこんな感覚は最近めずらしくない。むしろ最近では望んでここに来てしまっているのかとも思える。足元に広がる空を見下ろしながら、苑はふとそんなことを考えた。

 地面は見当たらず、くすぐったい浮遊感に不安を覚える。サーカスでよく見る綱渡りもこんな気持ちなのだろうか。はっきりと違うのはここは現実ではないということ。

 強く吹き付ける風に茶髪がかった長い髪が揺れる。ここはどことなく居心地がわるい。逃れるように苑は歩を進める。しかしその一歩目は立っていたはずの空間を踏み抜いた。

 がくんと落ちる膝に身体がよろめき、そのまま空へと落ちていく――――

 ***

「ひゃうっ」

 苑は椅子をガタガタと鳴らし机から飛び起きた。ぼんやりする意識。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。落ち着かせるように深く息を吐く。

 あぁ、またダメだった。あの夢を見るときはいつもこうなる。なぜだか先に進むことはできずに、ただ落ちていく。

 ここしばらく同じ夢を見続けては同じことの繰り返し。逃げることすら叶わず、空へと投げ出される。

 汗ばんだ身体の熱を逃がしながら、身嗜み整えて椅子へと座りなおす。

 ひと息ついたところで、遠慮がちな若い女性の声が聞こえた。

「あのぅ、厳島さん。いちおう授業中なんだけど」

 教壇に立つ担任の女性教員が困り顔で苑を見ていた。ついでに周りのクラスメイトの視線も痛いほど浴びている。

「お、お騒がせしました……」

 苑は顔が熱くなるのを感じながらぺこりと頭を下げる。

「いいのよ。先生の授業は退屈だもんね。で、でも次からは気を付けてほしいかなって」

「はい。すみません……」

 決して先生の授業が退屈というわけではないのだけど、この春の陽気は心地よすぎるのです。


 午後になり昼休みの時間。背伸びをする苑のもとへ女子生徒がやってきた。女子にしては背が高く、やや長めの髪をサイドに纏めている。

「もしかしてまた同じ夢を見てたの?」近くの机を寄せて、その上に弁当箱を広げながら三島結奈《みしまゆうな》が聞いた。

「ええ、そうなんです」

「授業中の居眠りでも見るなんてよっぽどの理由があるんじゃないの」

 苑はしばし思案顔をするも、首を横に振った。

「心当たりはないのですけど、どうなんでしょう」

「なんの話?」

 頭を悩ましている苑へ近寄ってくる声があった。ショートヘアが似合う快活そうな女子生徒が苑の元へと歩み寄る。

「阿佐美さん。こちらにどうぞ」

「ありがと」にこやかに礼を言い、阿佐美真尋《あさみまひろ》は用意されていた席へと座る。

 結奈はペットボトルの蓋を開けながら言った。

「苑が見る夢の話だよ」

「なになに、どんな夢?」

 興味津々といった様子の真尋に、苑は結奈にも話した夢の内容を説明した。

「空に落ちるのかー。不思議な話だね」真尋はサンドイッチをつまみながら言った。

「そりゃ夢だから」

「そうじゃなくて、空を飛ぶとかなら誰でもする想像だけどさ、落ちるって」

 真尋の言葉を受けて苑は頷いた。

「私もどうしてあのような夢を続けて見るのか不思議で。空を飛ぶことは、あの、考えたことはあるのですけど」

 同意を示すものの、いささかの羞恥心によってか苑の言葉にちからはなかった。

 そんな様子を見て真尋は極めて平坦な口調で言葉を添える。

「べつに恥ずかしがることないって。子供のころに誰もが通る道だよ」

「私はそんなことなかったよ」結奈は真顔で言った。

 苑と真尋は視線を交わすも言葉はない。やがて真尋が呆れた口調で言う。

「結奈って昔から可愛げがなかったんだね」

「なによ、自分には可愛げがあるとでも?」

「おや、その発言は苑も含んでない?」

「阿佐美にだけ言った。苑は誰が見てもかわいいでしょ」

「それは間違いないけどさ」

「あの、おふたりとも、それぐらいで……」

 苑は頬を染めながらうつむき加減になる。

 ふたりは恥ずかしがる苑を満足げにしばし眺め、結奈が話を戻した。

「一般的には空を飛ぶ夢っていうのは、自由に動けることから日常生活が順調で良い状態ってことらしいけど」

「じゃあ落ちちゃうってことは良くない状態ってことなのかな」

「どうなの、苑?」

 苑は首を横に振る。考えてみても思い当たる出来事はとくになかった。

「どちらかといえば……」言いかけて口を閉ざす。

 おふたりと友達になれてから楽しいことばかりです。なんて恥ずかしいセリフはとても口には出せなかった。

 苑は口ごもるが、そわそわしているのが伝わったのか真尋は気にせずに話を進める。

「その様子じゃ問題はなさそうだね。だったら何が原因なんだろうね」

「そもそも落ちるのが悪いこととは限らないんじゃない? 何度も見るぐらいなんだから潜在的に望んでいることなんだとおもうけど」

「うーん。でも落ちるって言葉はあんまり良いイメージないよね。とくに三年生《あたしら》にはさ」

「その点に関しては苑は問題ないでしょう。少なくともこの中で一番勉強できるんだし」

「いやいや、だからって落ちる夢を見てもオッケーとはならないでしょ」

 結奈と真尋は当人を置いてきぼりして議論を白熱させる。

 苑はすっかり蚊帳の外のようになっているが、そんな光景を眺めて自然と笑みがこぼれる。

 ふたりとは知り合って間も無い間柄だが、この他愛のないやり取りには心地よさを覚えていた。



 それから数日が経ったある日。苑は担任の女性教員からとある生徒を紹介された。

 担任にも同じ夢を見ていることを話していたことから、その生徒が助けになるかもと気を回してくれたのだった。

 放課後、苑は昇降口前の広場にいた。待ち合わせには早いが、性分からか待つことは苦じゃない。

 部活動に励む声。通り過ぎる自転車の音。帰路につくクラスメイトとの会話。時折聞こえる上空を飛ぶ飛行機の音。

 暖かい日差しは傾き始め、肌に当たる冷たい空気に思わず身体が震える。

 そうして昇降口の方をぼうっと眺めていたところに背後から声がかかった。

 「厳島さん」

 苑が声のする方へ振り返ると制服であるブレザーを着た男子がいた。朗らかな表情に優しい眼差し、同い年とは思えない落ち着いた雰囲気を感じる。

 気になるのは、彼は校内ではなく校門側からやってきた。まだ下校時間からそんなに経っていないのにどうして外から。制服姿なのだから着替えに帰ったわけでもなさそうだった。

 苑はひとまず挨拶を済ませようと、彼の方へ向き直り丁寧に頭を下げた。

「初めまして。厳島苑と申します」

「ご丁寧にどうも。古都島晴臣《ことじまはるおみ》です。よろしく」

 苑とは対照的に晴臣は簡素な挨拶を返すが、嫌味っぽさはなく爽やかさを感じるほど丸みのある口調だった。

 粗野で粗暴なクラスメイトとは違うあまり接したことのないタイプ。苑は緊張気味に尋ねる。

「古都島さん、紹介された身で言うのはおこがましいのですが、あの……」

「とりあえず場所を移そうか。暖かくなってきたとはいえ日が落ちると冷えるからね」

 そう言って晴臣は「こっちだよ」と、苑を手招き歩きだす。

 苑が慌てて追ってみるとすぐに追いついたので、斜め後ろについて歩く。

 昇降口を通り抜け階段を上がって三階へ。向かった先は北側の端っこにある生徒会室だった。

 生徒会室とは名ばかりで倉庫のような場所だと聞いている。普段から生徒が立ち寄ることはなく、生徒会の役員も不必要に訪れることはない。

 晴臣はためらわずにドアを開けた。

「鍵、かかっていないのですね」

「普段はかかってるよ。先生に開けといてもらったんだ」

 中に入るとと埃っぽい空気とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。適度に換気はしているのだろうけど、人が居ない空間というのはそれだけ濁りやすい。

 室内を見るとひどく散らかっていた。中央に寄せた机には行事に使われたであろう道具類が散乱していて、見ているだけで気が滅入りそうだった。

 壁には年間行事の表が貼られていて、カラーペンで注釈が書き込まれている。その下の棚には備品がしまわれていたり、授業で制作したであろう彫刻作品が転がしてあった。

「古都島さんは生徒会の方ではないんですか?」

「拙《ぼく》は違うよ。忙しくて学校にもあまり来れてなくてね」

「忙しい……?」

 学生である彼が学校に来れないほどのこと。まさかと思うけどすでに働いているとかなのだろうか。

 晴臣はふたり分のパイプ椅子を引っ張り出し、片方を苑の側へ置いた。

「ありがとうございます」

 苑は椅子へと腰を下ろし、鞄を机の上に丁寧にのせる。

 晴臣も向かい合うように椅子へ座った。

「あの、古都島さんは普段はなにをされているのですか?」

 想定してなかった質問に晴臣は一瞬呆けてしまう。

「これはまたずいぶんとおおざっぱな質問だね」

「すみません……忙しいと言っていたのでお仕事かなにかしていらっしゃるのかと」

「そうだね、そんなところだよ。家業を継ぐための手伝いで、勤めているわけじゃないけど」

「家業ですか。どんなお仕事か聞いても?」

「アドバイザーみたいなものだよ。陳腐な言い方をすれば人助けさ」

 苑はいまいち理解に至らない感じで首をかしげる。

「以前に先生自信から依頼を受けたことがあるんだ。それで困っている厳島さんのことを拙に相談してきたんだ、ちからになって欲しいって。ほんとなら本人以外から依頼は受けないんだけど、同じクラスだからこれぐらいはいいと思ってね」

「でも私は相談するような困りごとは……」

「最近見続けてる夢っていうのは? 枕を濡らすことはないとしても、安眠できてるわけじゃないだろう」

 そう言われては頷くしかない。あの夢のあと、落ち着かない気分になるのは間違いないのだから。

「それはそうなのですけど……あの、こんなこと言うのは失礼なのですが、それをお話ししてどうにかなるものなんでしょうか」

 あれは私の夢の中の出来事。解決できるのは自分以外の誰にもできないと、そう思っていた。

 不安げな表情をする苑とは対照的に、晴臣はやわらかい笑みを浮かべたまま答える。

「拙は助言をするだけ。実際にどうにかするのは厳島さんだよ。無責任だと思うだろうけどね」

「いえ、そんなことは……」

「ところで、厳島さんは空に対してどんなイメージを持ってる?」

 戸惑う苑をよそに晴臣は話を進めた。

「えっと、そうですね、大きいとか高いとか、あとは青空は気持ちがいいですよね」

「他には?」

「うーん……自由な感じがあります。伸び伸びとして、なんでもできそうな」

「自由か。そうか……」

 晴臣は少し考える仕草を見せる。

「厳島さんは兄弟か姉妹はいる?」

「いえ、いません」

「ご両親と仲は良い?」

「良い方だと思いますけど」

「けっこう過保護だったりする?」

「どうでしょうか。厳しいところはあると思います」

 そこまで聞いて晴臣は再び考える仕草で黙り込む。

 晴臣はしばらくしてもだんまりのままで、苑はおずおずと声をかける。

「古都島さん?」

「うん? あぁごめん。ちょっと昔を思い出してて」

「昔ですか?」

「厳島さん。きっと君はいまの生活に満足していないのかもしれないね」

 苑の言葉を無視した発言は、彼女を驚かせるには十分だった。

 私が不満を持っている……自分ではそんな感情に陥ったことはない、と思う。

「どうして、そう思うのですか?」

 苑は真っすぐな瞳を晴臣に向けた。それを受けてか、晴臣はいままでより慎重に言葉を続ける。

「ここからは厳島さんの内面に踏み込むことを話すから、少しでも不快感を覚えたなら言ってほしい」

 晴臣を見つめたまま頷く。

「おそらく君はそれなりに裕福な家庭で不自由のない生活をしてきたんだと思う。幼少のころからね。

 それが災いしてか、良くも悪くも君は真面目になってしまった。約束を守り、ルールを遵守し、尊厳を維持する。もちろんそれが悪いとは言わない。良い面の方が多いとも思う。

 ただそれ故に君には自由という選択肢が無くなってしまった。一度他人に決められたことを自ら崩すことができないんだ。

 知り合いと話すときも敬語が抜けていないのはそれが原因だろう。敬語じゃなくていいと言われたことはないかな?」

 苑は静かに頷く。何度か結奈や真尋に言われたことがあるが、そのたびに言葉を濁していた。

「空のイメージを聞いて自由と言ったね。その自由の中で自分は宙に浮いていて思うように動けない。きみの心を投影している夢なんだと、拙は思う」

 自分が不自由しているなんて、そんなこと、考えたこともなかった。

 だって私はいままで大きく困ることもなく、言ってしまえば順調に生きてきた。

 念願だった友達もできた。

 進路については不透明なところがあるけれど、不安があるわけじゃない。

 ただ、友達については、ふたりとの関係には確かに少し思うところがないわけじゃなかった。

 正しい言葉遣いには慣れている。でも、あのふたりのようにもっとくだけた会話をしたいと思うこともある。

 でもそれが正しいかはわからなかった。だから変に真似をして嫌われるのを恐れた。

 変わることが怖かった。日常を壊したくなかった。せっかくできた友達が離れてしまうのは嫌だった。

 願わくば、きょうという日が続いてほしかった。あしたが来なければいいと思うこともある。

 あぁ、そうか、これが私。現状《いま》に固執する。変化を拒む。

「古都島さん……」

 苑の呟くような声。

「あの夢が私の心を映しているいるのなら、どうすればあの夢を変えられますか?」

 晴臣は首のうしろをこすり、ゆっくりと話し出す。

「拙には才能がなかったんだ。家業を継ごうにも能力が充分じゃなくて、父親には期待もされてなかった。

 でも、ある時受けた依頼である人に出会った。その人は拙より歳が下だったけど、拙よりずっと強かった。もちろん腕っぷしがって意味じゃなくて、生き方というか生き様がね。

 自分より強い人を助けることなんて無理だと思ってたけど、その人が求めていたのは自分より強い人間じゃなかった。

 結果的に拙が手助けできた形だったけど、きっと誰でも良かったんだと思う。あぁ悪い意味じゃなくてね。

 誰かがそばに居ればそれだけで助けになれるものなんだと、拙は思うよ」

「古都島さんがそばに居てくださるということですか……?」

 晴臣はなだめるような口調で言った。

「拙じゃなくてもいいんだって。初対面の拙よりも、友人のほうがいいだろう。今後のためにも」

 苑はしばし思案するも、やはり難色を示す。

「でもそれは……」

「どうするかは厳島さん次第だよ。拙は助言をするだけだからね」

 困惑する苑を晴臣はせっつく。

「さあ、もう時間だからここは閉めるよ」

「あっ……はい、わかりました」

 釈然としない面持ちで苑は荷物を持ち外へと出る。晴臣も続いて出た。

「拙は先生にここを閉めてもらってくるよ。厳島さんは先に帰ったほうがいい」

「あ、あの……きょうは話を聞いていただいてありがとうございました。まだよくわからないですけど、なんとなく整理がついた気がします」

「助けになれたなら良かった。次は教室で話せたらいいね」

「そうですね。こんどは古都島さんのことも聞かせてください」

 苑はゆっくりと微笑み、丁寧にお辞儀をしてから階段へと歩いていった。



 先ほどまでの暗澹とした気持ちはすでに薄らいでいた。苑は少しばかり軽くなった足取りで校門へと出ると、そこにいた人影に歩を緩める。

 談笑していた結奈と真尋が苑に気付いた。その視線に答えるように苑が声をかける。

「おふたりとも、どうしたんですか?」

「阿佐美が課題の提出を忘れてたからその付き添い」

「それで先生のとこ行ってきたら、まだ苑が残ってるって聞いて待ってたんだよ」

 苑は少し驚いたように言った。

「私を待っていてくれたのですか?」

 ふたりは頷く。

「ここのところいっしょに帰ることなかったでしょ。だから久しぶりにさ」

「あっ、言い出したのはぼくだからね!」

「なに張り合ってるのよ」

「結奈よりもぼくのほうが苑を好きってこと」

「さいですか。ほっといていこ、苑」

 ふたりのやり取りを目の当たりにして、苑の胸にこみ上げてくるものがあった。

 あたりまえのことなのかも知れないけれど、私はこのおふたりの友達なんだと、そう改めて実感する。

 苑の目にたまった雫が頬をそっと撫でた。あわてて手で拭うがあふれ出る涙を止められない。

 結奈と真尋は思いがけず言葉がでなかった。しかし結奈はすぐに鞄からハンカチを取り出して苑の顔へと優しく触れる。

「なにを言われたかはわからないけど、言いたいことがあるなら聞くよ」

「……私は……おふたりの友達で、いいのですよね……」

 かすかな嗚咽が混じる。それでも苑の言葉ははっきりとしていた。

 ふたりは躊躇うことなく頷く。

「そうだよ」「あたりまえじゃん!」

 それを聞いた苑はますます大粒の涙を流すのだった。

 ***

 気が付くと私はそこに立っていた。

 眼前にあるのは見慣れた街並み。私の住む街だった。

 整然と並ぶ街路樹は青々と輝き、まだ新しい一戸建てが軒を連ねている。

 何度も見た光景。ただいつもと違うのは、私は地に足をつけていた。

 足元のアスファルトがしっかりと私の身体を支えている。

 顔を上げるとスカイブルーの空が広がる。その中をゆるやかにそよぐ風が私を包みこむ。

 この青空の下、私は自由になれることを知った。

 ふと周りに目をやると結奈と真尋がいた。何か言い争いをしている。きっとまた他愛のないことでもめているのだろう。

 遠目にじっと眺めているとこちらに気付いたらしく、ふたりして手を振ってくれている。

 私は深呼吸をして、ふたりに近付こうと一歩を踏み出した。もう怖がることはない。自由を手にしてみたい。

 この、大空に翼を広げて――――