空は晴れていた。眩い陽射しが水面を照らし光のヴェールを作り出す。その光が届かない海の底はほの暗くひんやりとして、少し寒い。

 一人きりでいると、無骨な岩肌に囲まれた寝床はいっそう物寂しく感じる。だけど、慣れ親しんだこの狭い空間はボクにやすらぎを与えてくれた。

 独りぼっちの日々の淋しさをまぎらわすように、ボクは空を泳いだ。あかるく透きとおる水面はまぶしくて、太陽の光がひりひりと肌を焼く。

 全身に陽射しを浴びることで自分の存在を確認できた。

 この海にたった独り。けれどもたしかにいる。ここにいると、思えたんだ……。

 仲間たちがこの海を離れたのは数年前。近海の汚染がここまで迫ってきていたからだった。

 文明が進むのに比例して海は汚され続けている。汚染の魔の手が届くまえにその場所を離れなくちゃいけないから、ボクらは東から西へと海を渡って来た。汚れた水に晒されれば命にかかわるのだ。

 この海での生活も長くなったあるとき、ボクの親友が人間に恋をした。

 人間にかかわることは禁止されていない。けれど、みんながみんな同じように人間を避けてきた。

 理由はボクらのご先祖様の昔話にある。

 ずぅっとむかし、ご先祖様が人間と出会ったことがあった。難破した船から助けたとか、海岸で遊んでいるところを見られたとか、途中のお話は語り手によって脚色されていてばらばらだったけど、結末はみんな同じ。想いをよせた人間に裏切られ、ご先祖様は泡になって消えてしまう。

 裏切られる。そして泡になってしまう。そんな昔話があるせいか、ボクらは決して地上には近づかなかった。

 もちろん親友もその昔話は知っている。それでも彼女は人間に会うのをやめなかった。

 そのことが仲間にバレてしまい、彼女は仲間たちからしめ出されてしまう。ところが、彼女は人間との出会いを隠すつもりもなかったみたいで毅然とした態度だった。人間のもとへ行くといって出ていこうとする彼女を引き留めたけど、残念なことにもう彼女の心にはボクの言葉が入る隙間などなかった。

 そんな彼女がボクに最後の言葉をかけた。

『あなたにはわたしの気持ちをわかってほしかった。さようなら』

 ここを離れなきゃいけなくなったのはそれからすぐのこと。

 でもボクはこの海に残ることを決めた。彼女は戻ってくると信じている。戻って来たとき誰もいなかったら淋しい。そう思ったから。

 仲間たちはあっさりとボクを置いていき、それからは独りぼっちになった。そして、いまも。

  ◆ ◆ ◆

 独りになってどれくらいが経っただろう。

 ボクはふとした思いで地上を目指すことにした。

 親友を探しにいくという気持ちではないように感じる。

 たぶん、純粋に興味があったんだと思う。

 地上に。

 人間に。

 この閉じた世界の外側へ行ってみたいと。

 浅瀬まで泳ぎついて、慎重に顔をだす。ひさしぶりの空気が濡れた髪を撫ぜる。

 人間がいないことを確かめてからゆっくりと砂浜にあしを付く。 

 波打ち際はまでくるとあしが止まった。まるで砂に根付いたかのように動かない。

 その先へ手を伸ばしてみるけど、届かない。まるで見えない壁で遮られているようだ。

 そこがボクの限界なのだと思い知らされた。

 さざ波があしを濡らし、砂をかき分ける。あし先がずぶずぶと埋もれていく。

 頭の隅に黒い靄が立ち込めてきた。それがじわりじわりとボクの頭を侵食していく。

 はっとしたボクは、悪いイメージを振り払うように海へ飛び込んだ。

 砂浜から遠ざかり、気づけば寝床の近くまで戻っていた。

 仰向けになって夕闇の空を見上げる。すぐに夜の帳が降りる。

 馴染んだ海底の暗さとは違う、吸い込まれるような深淵の黒。

 ちからが抜けたボクの身体を闇が包み込み、海の底へと引き寄せ、沈んでいった。

  ◆ ◆ ◆

 しばらくしたある日。ボクはまた地上を目指していた。

 なぜかわからないけど、行かなきゃいけない気がしたんだ。

 穏やかな水の流れにのって進み、前にきた砂浜が近づいてくる。

 水面に顔を出そうとのぼっていくと、中空にしぶきがあがっているのがみえた。

 周りにはなにもないところでなにかが蠢いている。

 その影の正体が人間だと確信するまで時間はかからなかった。垣間みえる顔は苦痛にゆがんでいる。

 ボクはその手をとろうと迷わずとびついた。暴れる四肢をおさえつけて抱きかかえると、波打ち際までぜんりょくで走り抜ける。

 砂浜にたどり着いたころにはすっかり息が切れていた。仲間と競うことがなくなってから体力がおちてしまったみたいだ。

 ボクの手を離れ、砂浜に打ち上げられたように伸びる人間は子供だった。

 丸みのある顔に細い身体。胸元の隆起をみてボクと同じ女の子だとわかった。

 ほどなくして目を覚ました少女をまじまじと眺める。ボクを見つめ返す瞳は虚ろいながらも、喜んでいるようにみえた。

 彼女は「ありがとう」とお礼をいったけど、ボクは言葉を交わすのをためらった。いまになってあの昔話が頭をよぎる。

 でもここまできたのに、引き返すことなんてできない。

 ボクが意を決したのと同じタイミングで、彼女から自己紹介をしてきた。

 彼女はミホと名乗った。よくこの海で泳いでいるのだけど、さっきは沖まで流されてしまって戻れなくなってしまったらしい。

 そこをボクが助けた。ミホは命の恩人だと大げさにいう。

 こんなに穏やかな波だというのに、人間はよっぽど泳ぐのが下手なんだな。

 などど考えていたらミホがボクをじーっと見つめてきた。名前を知りたいらしい。

 ボクは「ナナコ」とだけ答える。ミホは嬉しそうな笑顔をみせた。つられてボクの口元もほころんだ。

 ミホもまた口下手なのか、ボクらの会話は一言二言でとぎれる。少しずつ話をしていくうちにミホとは年齢がほとんど同じだとわかった。

 ボクの心はすっかり好奇心であふれていたため、これはチャンスだと思った。「友だちになろう!」勢いづいてミホに詰め寄る姿勢になる。

 ミホは少し驚いたように目を丸くさせる。でもすぐにやわらかい表情に戻り、ボクの手をやさしく握ってくれた。

 それからミホとは何度も遊ぶようになったけど、場所はいつもこの海辺だった。理由はもちろんボクがこの海から出られないから。人間と同じあしがあっても海からは出ることはできない。

 そう、ボクのことを話してはいない。だから海から出られない理由もちゃんと教えてない。それでも彼女は毎日のようにこの砂浜にきてくれる。それがとてもうれしかった。

 そのうち、ミホは家へこないかと誘ってくれた。でも、うんと言ってあげられない。断られたときの彼女の笑顔には影が差してる気がした。

 胸が締め付けられるような気持ちだ。ミホにはいつも笑っていてほしい。ボクがこの海から出ることができれば、彼女の笑顔を奪うようなことにはならないと思う。で

 でもそれは無理だった。ボクをこの世界から救いだせるとしたら、それはきっと神様にしかできないことだから。

 ミホの何度目かの誘いを断った次の日、彼女は現れなかった。

 とくべつに約束をしたわけじゃない。待ち合わせなんかも決めていない。

 それでも友だちになったその日からは、示しあわなくても会えていた。

 でもその日からはぱったりと姿をみなくなった。

 ボクは昔話を思い出す。そして親友のことが頭にちらついた。

 あぁ、またあの黒い靄だ。闇がボクの頭を埋め尽くそうと忍び寄る。

 住む世界が違うことはわかっていた。

 それでもボクは誰かとつながりたかった。

 昔話のように、ご先祖様のように、裏切られることになるとしても。

 毎日のように浜辺に顔を出したけど、ミホの姿はなかった。

 もう諦めようと自分に言い聞かせる。

 でも言葉とは裏腹に、ボクの心は未練がましく海辺を望んでいた。

 ボクのもとから誰かがいなくなるのは初めてじゃない。だから大丈夫。

 こんどもきっと耐えられる。独りぼっちでも。

 このガラスの箱庭がボクの居るべき場所なのだから。

 だから……大丈夫…………。

  ◇ ◇ ◇

 胸騒ぎがした。

 ミホと出会ったときと同じ感覚だった。

 ボクは居ても立ってもいられなくなり、海辺を目指した。

 もう何ヶ月も会っていない。もうあの街にはいないかもしれない。

 でもボクの心はミホに会いたいと願っている。その心が命じるままに出会った海へと急いだ。

 そしてあのときと同じ、中空を漂う影を見つけた。ゆっくりと沈んでいく姿、見間違うはずなどなかった。

 そのまま駆け寄り、優しく抱きかかえる。身体は冷えきっていた。

 手をぎゅっと握りしめて砂浜へと急いだ。

 あしのつくところまで引っ張って呼吸をたしかめる。ミホは飲み込んだ水を吐くように咳き込んでいた。よかった。安堵したとたんに涙が溢れてきた。

 ミホは弱々しく「また会えてよかった」とこぼした。

 ボクに会うためにこんな無茶をしたのかと思ったら、ますます涙が溢れた。

 死んでいたかもしれない。「ナナコが助けてくれるから死なないよ」そう言ったミホに、ボクは泣きじゃくってバカと言い続けた。

 

 お互いに落ち着いてから、これまでのことを話しあった。

 ミホが会いに来ようとしていたことがわかっただけで嬉しかった。

 でも、すぐにこの街から去ってしまうと寂しそうに話す。

 それを聞いてボクも寂しくなった。けれどここでそんな気持ちを出したら笑って送り出せない。

 また離れることになるけど、こんどはボクが会いにいく番だ。

「大丈夫、きっとまた会いに行くから。待ってて」ミホは少し驚いていたけど、すぐに笑いかけてくれた。

「わかった。待ってる」そう言って、ボクたちは手を握りあう。

 わずかな言葉で別れを告げたあと、ミホに見送られながらボクは海へと還った。

  ◇ ◇ ◇

 しばらくしても、ボクは未練がましくこの砂浜にきていた。

 誰かに見られる心配はあったけど、それを気にかける心の余裕はなかったみたいだ。

「会いに行くなんていったけど、この見えない壁は超えられないんだよなー」

 砂浜に立ち目の前に手を伸ばしてみるけど、やっぱりそこはガラスに囲まれた空間だった。

「独りぼっちは、寂しいよ……」

 そう呟いた瞬間、ふいにだれかの気配を感じた。周りを見渡して、振り返ってみるけどだれもいない。気のせいかと思って前に向き直ると、

「やあ、こんにちは」

「ゃん……!」

 自分でもバカっぽい声がでたなと思った。ちょっと恥ずかしかった。

 でもそれよりも、突然あらわれた人間に吃驚して、すぐ目の前に意識を向ける。さきほど感じた気配の主はどうやらこの女の人らしかった。

「ごめんヨ。驚かすつもりだったんだけど、そんなにいいリアクションしてくれるとは思わなくてネ」

「……?」

 驚かすつもりだったのに謝るんだ。なんだか喋り方にも違和感があるし、ボクに話しかけてくるなんてどういうつもりんだろうか。

「ええと、ボクになにか?」

「その通り。キミに用事があるんだ」

「なんでしょう……?」

 遠慮がちに聞いてみると、金色の髪をした女性は自信に満ちた顔で話す。

「キミの事情は知ってるから説明はいらないヨ。アタシはキミの願いを叶えるためにきたんだ。信じて言うことをを聞くというのなら、キミを人間にしてあげる」

「……に、んげんに?」

 この人はなにを言っているんだろう。そんなことできるわけがない。そんなことができるとしたら、神様ぐらいのはずだ。

「あぁ心配しなくても大丈夫だヨ。アタシは神様だから」

「…………」

 この人はなにを言っているんだろう。ボクは声に出さずに同じ言葉を繰り返した。素直に受け止める準備ができていないからか、いまの言葉をなかったことにしようとしていた。

「おぉっと、信じていないネ。まーむりもない、アタシに初めて会うやつらはみんなそういう顔をする。それならそれでアタシは帰るだけサ。キミに無理強いをするつもりも義理もない。望みどおりなかったことにしてくれてかまわない」

 むぅ、意地悪な人だ。そんな言い方をされたら聞くしかないじゃないか。ボクは恐る恐るその先を聞いてみる。

「ほんとうに、ボクを人間にできるんですか……?」

「もちろんサ」

 女性は輝く金色の髪を揺らして答える。

「でも簡単な話じゃない。それ相応に必要なことがある」

「必要なこと、ですか……? いったい何を」

「それはアタシの話に乗ると決めてからじゃないと話せない。そういう掟なんだ、わるいけど」

 なんだか調子よくのせられてる気がする。だれだかわからない人の言うことを聞くのは、とってもよくないと思う。ミホがいたらいっしょに考えてくれるのに。

 ミホがいたら……。

 そうだ…………ミホに会うって約束をしたじゃないか。そのチャンスをくれると言ってる。迷うことなんかない。ボクはまたミホに会うんだ。

「わかりました……信じます。だからボクを、人間にしてください」

 ボクは控えめに、でも力強く答えた。それを受けて、女性は意地の悪そうな笑顔をみせる。

「うん。いい返事だネ。時間がかかるかもしれないけど、まぁそこはキミの頑張りしだいだ。あの子のためにも頑張るといいヨ」

 もしかしてミホのことも知っているんだろうか。聞いてみたいけど、きっとはぐらかされるだろうな。

 女性はボクに歩み寄ると手を差し伸べて言う。

「それじゃ、まずは一歩目から」

 促されるままにボクはその手を握り、引かれるように砂浜を歩く。そのあしは海から抜け出し、水に濡れないままで砂浜をけっていた。あまりに自然な動きすぎて、感動を味わう間もなく第一歩を踏み出していた。

「どうだい? なにか感想は?」

「……初めての相手はミホがよかった」

「あははっ、なかなか言ってくれるじゃないか。それぐらい気概があるほうが愉しいから大歓迎だヨ」

 女性は屈託のない笑顔をみせる。ボクはその笑顔をみて、この女性を少し信じてみることにした。

 信じると決めたからには確かめたいことがある。

「あの、あなたが神様ならどうしてボクのところへ来たんですか?」

「仕事だから」

 まじめな顔で返された。

「しごと……?」

「っていうのは冗談サ。昔ならそういったかもしれないけど、いまは違うからね」

 神様は表情をくずすと、けたけたと笑ってみせた。

「じゃあどうして?」

「頼まれたのさ」

「たのまれた? ボクのことを? いったいだれに」

 神様は笑ったまま、もったいぶるように言う。

「少し前にこの近くでキミくらいの女の子と出会ったんだ。その子は愛する人に逢おうと地上に出ようとしていたんだけどネ、アタシが手を貸して助けたのサ。そのときにその子がいったんだ。『親友が独りぼっちでわたしの帰りを待っています。わたしはもう海へ帰れないから、あの子がこっちに来ることを望んだときはちからになってあげてほしい』ってネ」

「それって…………」

 ボクは別れ際の彼女の顔を思い出した。

「だからこうして馳せ参じたわけさ。キミの心が強く願うのを感じたからネ」

「そっか。よかった……彼女は幸せになれたんだ……」

 記憶の中の彼女はとても悲しそうで、辛そうにみえたのを覚えてる。でも、きっといまは笑顔になれたはずだと思ったら、嬉しくなった。

「幸せかどうかはこれからのあの子しだいサ。それはキミも同じだよ」

 顔をあげると、神様の慈しむような笑顔が向けられていた。さっきまでとは違うやわらかい微笑み。それだけでボクの心が暖かくなるようだった。

「あの! なんていうか、その……お世話になります」

「こちらこそ、お世話してあげます」

 神様は自信満々に胸を張って答えた。

 またミホに逢いたい。

 どれだけ時間がかかるかわからないけど、待っていてほしい。

 たとえ記憶が薄れてしまっても、また逢いに行くから。



 錦木朱葉《にしきびあかば》という女の子の話をしたいと思う。

 彼女がどんな人間か言い表すなら、霞のような子だった。

 初めて出会ったのは高校生の頃。

 入学してからというもの、俺は知り合いのいないクラスに馴染めずにいた。仲良しこよしで同じ高校に入学するやからは少ないと思うし、運良く同じクラスになることもほとんどありえない。つまり条件は俺も他の連中も同じはず。それなのにどうしてか俺だけクラスから浮いている気がしてならない。

 対人恐怖症でもなければ、人見知りでもない。そう思っていたのに、どうやらそうではなかったらしい。

 みるみるグループが形成されていき、俺はたちまち余り物になった。

 不幸中の幸いか、ひとりでいるのは嫌いじゃない。休み時間はぼーっとしてるし、トイレに連れ立っていくこともない。何も問題ない。

 そうは言っても学校という箱の中で孤立しているというのはとても目立つ。教員にいらぬ世話をかけられ、果ては家に連絡をされかねない。俺は平気だけど両親に心配はかけられない。だからなんとかして作らなければならない。親友とまではいかなくても、友達のひとりくらいは。

 一ヶ月が経ち、あいかわらずひとりで弁当を食べている俺だったが気づいたことがあった。クラスに俺と同じような女子がいる。意識してみるようになると、おはようからさよならまで独り法師だった。

 俺は彼女に自分の姿を重ねて親近感を持つようになり、かってに友達のように感じていた。面と向かって顔は見れていないけど、遠巻きにみえる表情は物静かで人形のようだった。

 それからはついつい彼女の姿を目で追ってしまっていた。誰とも話さずずっとひとりでいる様子は心配になってくるほどだった。おなじ状況の俺が言えたことではなかったけれど。

 ある時、クラスで二人組に分かれるというイベントがとうとうやってきた。溢れ者として衆目に晒されることになりそうで気が気じゃなかったけど、これはチャンスだと思った。彼女に声をかけるならいまがその時なんだと。

 ざわつく教室内に紛れるように席を立つ。数歩先にある彼女の席まで恐る恐る近く。入試の時とは比較にならないほど緊張しているのがわかる。声がちゃんと出るかどうか不安になってくる。でも喉の調子を整えるよゆうはもうなかった。

 彼女の席まできて、俺はいままで眺めているだけだった彼女に初めて声をかける。なんと言って声をかけたかは覚えていない。でも。彼女の初めての笑顔は忘れることはないだろう。

 それからは彼女、錦木朱葉と行動を共にすることが多くなった。お互いにグループから溢れたもの同士で気兼ねすることはない。共通の話題が多かったわけじゃないけど、自然と会話は弾んでいた。

 そんな彼女との付き合いでひとつわかったことがあった。彼女はとても存在が薄い。以前は意識して彼女を追っていたからしっかりと認識できていたのか、いまでは彼女の姿をすぐにみつけることができないことがある。教室内で声をあげて探すわけにもいかず、ぐるぐると見回すのだけどみつからない。教室にはいないのかと思っても、すぐに彼女の方から声をかけてくるのだ。そのたび俺はびっくりして、そんなリアクションに彼女は無邪気な笑顔をみせていた。

 そういう意識を持ったせいか、それからというものいっしょにいても彼女の存在が朧に感じるようになった。透明感という言葉があるが、まさにそんなイメージで目の前にいるのに彼女が薄く透けているかのようにみえてしまう。

 もちろんそんなことはありえない。彼女はまぎれもなくここにいるのだから。

 学年が上がり、朱葉とはクラスが別になった。それでも彼女との付き合いは続いていた。回数は減ったけど、会う努力は怠らなかった。

 でもクラスが別になったにも関わらず彼女をみつけるのは難しくなっていて、いつしか名前を呼んで探すようになった。名前を呼べば彼女のほうから俺をみつけてくれる。恥じる気持ちはとうになかった。

 三年生を目前にして彼女と進路の話をするようになったけど、朱葉は詳しいことはなにも話そうとはしない。ほとんど俺の話ばかりだ。

 いまにして思えば、彼女が自分のことを話したことはなかった。俺が彼女について知ってることは名前と、それから、よく泣くこと。

 彼女は感受性が豊からしくて本を読んでいると泣くし、風景をみて泣いていたこともある。そういえば俺が将来の夢を語っている時も泣いていたような気がした。

 俺にはわからない感覚だったけど、それが彼女のすべてだったような気がする。

 普段から人との関わりを避けるようにしている気がするのは、他人の感情までも自分のものにしてしまうからなんだと思いはじめた。

 楽しさならまだしも、負の感情を受け続けるのはなみなみならぬストレスだ。それを最小限に抑えるために、朱葉は独り法師でいることを選んだのだろう。

 そうだという確信に近い考えが浮かんでも、それでも俺は朱葉と共にいたいと思った。

 俺はこのまま彼女との日常を過ごしていきたい。

 朱葉どう考えているんだろう。

 俺との付き合いを煩わしく思っていたりするのだろうか。

 自由時間は減る一方だった。朱葉に会うことはほとんどなくなって、放課後に待ち合わせるようになった。

 それでも許された時間は少なく、近くの公園で小一時間も喋るのが限界だった。白衣を着た先生に呼ばれるともう戻らなければならない。

 やがて、外に出る時間はなくなり、いつしか彼女と会うことはなくなっていった。

 そうして月日が流れて、卒業を間近にしたある日。

 久しびりに朱葉に会おうとわずかな時間を使って彼女を探した。

 ところがどこにも彼女の姿はない。

 思い当たる場所を探してはみっともなく声をあげて朱葉を呼んだ。

 やっぱり彼女がいる気配はない。

 けっきょく、俺は朱葉になにも伝えられなかった。

 いっしょに居て心地よかった。それに甘えて何一つ思いを告げることはなかった。

 もしも、いまからでも言葉が届くのならば最後に伝えたいことがある。

 ありがとう。

 それから、さようなら。


 棺を前に、少女はノートを握りしめて大粒の涙を流す。



「きょうの探索はらくしょーだったね!」

 カティヤは運ばれてきたエールをひとくち呷るやいなや言った。

「そうねー。いつもこれぐらい簡単なら助かるのに」

 乱れた長髪を撫で付けながらアンネレがのんびりと答える。

 意気揚々とする二人に比べて、ヘルッタは変わらず落ち着いた声で言葉をつなげる。

「でもカティヤ、さいごの罠に気づいてなかったよね……」

「ちゃんとよけたでしょ! だいたい気づいてたなら教えてよぉ」

「だってカティヤちゃん、先に走っていったじゃない。止める暇もなかったわよ」

 アンネレのもっともな答えに、カティヤは不満そうに口を結ぶ。

「まぁ、入り口の謎はカティヤのおかげで解けたんだし、よくやったよ……」

「でしょお!」

 褒められると一転して上機嫌のカティヤは一笑する。

 三人は中央群に属する街を拠点に活動をしていた。

 東西南北に点在する遺跡や廃墟に赴き、隠された宝飾品や遺物の回収を生業としている。

 ここ数ヶ月はアーティファクトと呼ばれる偉人が残した遺産の収集をしていて、いまも南にある国境付近の砦跡の探索を終えたところだ。

 

 一息ついて、アンネレがきょうの成果を確認する。

「きょうのアーティファクトで二つ目ね。ルッタちゃん、もう一度見せてくれる?」

「ん……」

 アンネレに促され、ヘルッタは包みを取り出しテーブルに広げる。

 それは飾りの付いたブローチだった。青い宝石と、鳥を模したチャームが付いている。小柄なヘルッタが身につけるには大きく感じるサイズだ。

「一つ目に回収したイヤリングもそうだったけど、あたしたちのリストのアーティファクトはほとんどアクセサリーだね」

 そう言ってカティヤは自分の耳を触る。はじめに回収したアーティファクトが耳元を彩っていた。

「ギルドからもらってるリストみても、あとの三つもアクセサリーみたいよね」

 アンネレは雑多にまとめたメモを見やる。五枚のうち二枚は回収済みのイヤリングとブローチの詳細が書かれていた。

「ペンダントとカチューシャはわかるのだけど、このカンザシっていうのはなにかしらね」

「それはあたしも気になってるんだ。棒の先に飾りがついてるけどなにに使うんだろう」

 写された絵を不思議そうに眺める二人。ヘルッタは頭の中の引き出しを開けて言葉を返す。

「たしか、髪を結うときに使う装飾品だったはず……」

「髪を結う? こんな棒でどうやってまとめるのさ」

「使い方まではわからない……」

「手に入れたら試してみようよ。アン姉で」

 ふられたアンネレはやや不服そうな顔でカティヤを見る。

「私なの?」

「だってあたしじゃ短すぎるし、ルッタ姉じゃ似合わなさそうだし」

「カティヤ、ひどい……」

 ヘルッタはしゅんと目を伏せる。

「カティヤちゃん」

「あーごめんて。ルッタ姉はいつもフードしてるからつけてもわからないでしょ? だからアン姉のほうがいいかなーって」

「それはたしかにそうかも……」

 そう言って気を取り直したヘルッタは羨ましそうな眼差しをアンネレに向けた。

「私はいいのよ。二人がつけたほうがきっとかわいいわ」

 ごまかすかのように手を合わせ微笑むアンネレ。

「そういっていっつもあたしたちにやらせるじゃない。たまにはアン姉もやりなよ!」

「そうだね。姉さんもいっしょにやろう……」

 妹二人に詰め寄られたアンネレは、意外なことにあっさりということを聞いた。いつもなら、のらりくらりと逃げの一手を織り交ぜるところだがその様子はない。

「わかった、それでいいわ。けどその話はカンザシを手に入れてからにしましょう。とりあえずは残りの三つを手に入れるのがさきよ」

「りょーかい。次はどれを狙う? っと、すいませーん」

 カティヤは横切るウェイトレスを呼びとめ、三人分の料理を適当に注文した。

 三人は運ばれてきた料理をたべながら、広げた地図をながめる。

「一番近いのはペンダントがある西の地下墓所かな……」

「カチューシャとカンザシはどっちも遠いわね。北部城塞にあるカチューシャのほうが取りやすい感じはあるけれど」

「カンザシはどこにあるの?」

 言いながらエールを飲み干したカティヤがグラスをテーブルに置いた。

 アンネレが指で地図をなぞる。

「東自治区にある女神像のどれかにカンザシが備えてあるみたいだけど」

「あそこは像がたくさんあるから探し出すのはたいへん……」

 ヘルッタはうんざりといった表情になる。

 姉から思いがけない言葉がでてきて、カティヤは少し驚いた。

「ルッタ姉行ったことあるの?」

「むかし研究のために寄ったことがある。けど、調べたのは建物のほうだったから像はよく見てない……」

「私も人伝てに聞いた話しかわからないから、行くときはルッタちゃんに案内してもらいましょう」

 アンネレに頼られて、ヘルッタは照れるように口元をゆるめる。

「それじゃあ次はペンダントのある地下墓所だね。そのあと北と東のどっちに行くかはあとで決めればいいかな」

 カティヤが話をまとめると、ヘルッタも頷き同意を示した。

 しかし焦ったようにアンネレが言葉を挟む。

「さきに北に行ったほうがいいんじゃないかしら。城塞は未開の場所だから時間がかかると思うの。さきに片付けちゃって、ゆっくり女神像を調べましょう」

「時間がかかるほうをさいごにじっくり調べたほうがいいんじゃない?」

「いいえ! さきに城塞を調べるほうがいいわ! ルッタちゃんもそう思うわよね」

 アンネレはおとなしいほうの妹に、なかば強いるような言葉をなげかけた。声をあげる姉にヘルッタもうんと頷く。カティヤも気圧されるように肯定をする。

「そ、そう? まぁあたしからすればどっちでも同じだからべつにいいけど」

「じゃあ地下墓所のあとは城塞に行って、さいごに女神像の調査ね。決まり!」

 揚々とするアンネレに妹たちは顔を見合わせる。違和感にお互い首をかしげるが、とくに意を挟まず話を続けた。

「そんじゃあとはこのブローチだね。どっちがつける?」

 そう言ってカティヤが姉二人を見比べる。

 ヘルッタが口を開くより早くアンネレが続けた。

「もちろんルッタちゃんよね。私の服には似合わないもの」

「姉さんがそういうなら……」

 いつものようににこやかにするアンネレ。ヘルッタに有無を言わせず話を続けたそれをみて、カティヤがふとさきほどのやりとりを思い出した。

「ちょっとアン姉。もしかして、残りのアーティファクトも自分はつけないつもりでしょ」

「――そんなことないわよ?」

「間が空いたうえに声がうわずってるんですけどぉ」

「ほ、ほら! 私はカンザシをつけることになったじゃない」

「それもだよぉ。さいごにカンザシを回収してぜんぶ集まったら、そのままギルドに渡すよね? つけるチャンスないじゃん!」

 アンネレのしまったという顔に、カティヤはやっぱりと言葉を続ける。

「それでさきに城塞にいくーなんていったわけだ。まったく油断も隙もない。そんな理由ならさきに東自治区にいくよ!」

「カティヤちゃん!」

「そんな顔してもダメ」

「カティヤちゃん」

「ダーメ」

 すっかり上下が変わってしまっていたが、アンネレは毅然として言った。

「私たちが姉妹になると誓った日にルールを決めたわよね」

「ちょっとアン姉!」

 姉妹ルールを持ちだされてしまいカティヤは慌てる。

「ルッタちゃん、どんなルールだったかしら?」

 急にふられてヘルッタは少しびっくりした様子だったが、すぐに答える。

「どんなことも隠さずに話し合いをする……」

「そうよね。というわけで話し合いよ。さきに城塞にいったほうがいいと思うひと!」

 アンネレは大きく挙手をした。同様にヘルッタも静かに手をあげる。

「姉さんの意見のほうがいいとおもう……」

「ルッタ姉まで! アン姉にもつけさせなくていいの?」

「カティヤがつけるのもいいとおもうから……」

「そんなことばっかりいって! こんなのおーぼーだ!」

 アンネレは手を叩いていきり立つカティヤをなだめる。

「はーい。もう決まったことよ、諦めなさい。それじゃあ二人ともあしたに備えて休みましょう。はやくギルド員になれるようにしっかりと五つ集めなきゃね」

「そうだね……」

「うー、なっとくいかなぁーい」

 アンネレが会計を済ませて、ヘルッタは不満いっぱいのカティヤの手を引いて酒場をあとにした。

 星が煌めく夜の帳の下、三人は寝床にしている宿へと帰っていく。

 途中、カティヤはあくび混じりにアンネレに聞く。

「アン姉さぁ、ギルド長ってどんなだった?」

「どんなって、普通の人間だったけど」

 アンネレはなんでもないように答えた。

「ふぅん。ほら、あたしとルッタ姉はギルド長に会ってないからさ。ルッタ姉も気になるでしょ?」

「すこし……」

「そうねぇ。人間ではあったけど私たちとは違う種族みたいだったわ」

「そうなの?」

「顔立ちが違っていたし、名前も独特なものだったわ」

「名前……?」

 ヘルッタは興味が増したのか食い気味に言った。

「えぇ。名札を付けていたのだけれど、異国の文字で書かれていたから読めなかったわ。漢字っていうんだったかしら」

「でも聞いたんでしょ? なんて名前だったの?」

 アンネレは宙で指をふりながら、

「漢字で雨音って書いて『うおん』さんだって」

 それを聞いたカティヤはしばし間を空けてからつぶやいた。

「へんなの」



 夢をみる。女性の後ろ姿。彼女はそっと振り返り、懐かしい笑顔をみせた。

 どうして懐かしく思うのか。ぼくは彼女のことを知らないはずなのに。

 口元が動いている。ぼくに向かってなにか語りかけている。

 でもぼくにはなにも聞こえない。

 彼女の言葉は聞こえない。

 ………………

 …………

 ……

      ◆   ◆   ◆

 アウラが旅に出てから季節が巡った。街を出る時の自信に満ちた笑顔はいまでもよく覚えている。去り際の言葉も鮮明に思い出せる。ただ、アウラは通信機を持っていないから連絡はまったく取れていない。せめて手紙のひとつくらいくれれば安心できるのに。

「あいつはそんなにまめな性格じゃないだろ」

 ぼくの愚痴を聞いてクロウルは酒をあおりながら言った。

「そうなんだよなぁ」

「無沙汰は無事の便りっていうじゃねぇか」

「それも、そうなんだよなぁ」

「煮え切らないやつだな。ぐだぐだ言うくらいならてめぇも付いて行けばよかっただろうが」

「それも考えたけど、人間のぼくが行けるわけないだろう」

 クロウルは渋い顔をして言葉を濁す。

「あぁ……そうだったな。わるい。てめぇと話してるとどーもてめぇが人間だってことを忘れちまう」

「気にするなよ。ぼくも時々きみが火蜥蜴《サラマンダー》だってことを忘れるんだから」

「へっ、いってくれるじゃねぇか。まぁそれくらいの肝っ玉がなけりゃここじゃ生きていけねぇよな」

「強面の火蜥蜴《サラマンダー》と膝を突き合わせてるおかげだよ」

「ったく口の減らないやろうだ。もう行くぜ、これから仕事だ」

 クロウルは小銭をテーブルに置いて立ち上がった。長身で筋肉質、浅黒い肌をした強面ともなればその威圧感はすさまじいものだ。初対面なら間違いなく会話は弾まないだろう。ぼくがそうだった。

「けどまぁ、てめぇの愚痴を聞くのもこれで最後だな」

 そう言って立ち去ろうとするクロウルに疑問を投げる。

「どういうことさ?」

「ちょうど一年だ。あしたにはあいつが帰ってくる約束だろ」

 母親を探すために旅に出ると決めたアウラを止めることは、ぼくにはできなかった。

 天真爛漫な彼女がときおり見せる憂いの表情を知っているから、送り出すべきだと思ったんだ。

 いっしょに行けるなら行きたかった。でも人間のぼくがこの国を出るのは簡単じゃない。

 変異体が統治しているこの国ではただの人間は管理される立場にある。与えられた仕事をこなし、有事の時以外に居住区から出ることは許されない。例外として壁の外での作業をする人間は外へ出られる。もちろんそれも監視が付くから自由行動なんてできないのだけど。

 顔も知らない母親を探すのはとても難しい事だと何度もアウラに説いた。それでも彼女は自信満々に『だいじょうぶだよ』と言った。

 アウラが言うには、母親の残した灯りがみえるらしい。外壁に囲まれているから実際に目視できるわけではなく、感じるに近いものだと思う。そしてそれを感じ取れるのは彼女だけなんだろう。

 言うまでもなく彼女、アウラ・セニサリスも変異体だ。

 クロウルと打ち解けてからしばらくした日に、彼女を紹介された。二人は同じタイプの変異体ということで付き合いが長いらしく、人間のぼくの話に興味を持ったからだという。

 さいしょは物珍しいからという野次馬のようなものだと思っていた。でもそうじゃなかった。アウラは人間にではなく、ぼくに興味があると言う。クロウルからどんな話を聞いたかはわからないけど、友人の少ないぼくにとっては話せる相手ができただけで嬉しかった。

 それからは三人で集まって話すことが多くなった。日々の雑談や、人間に対する差別的な扱いにアウラが声を荒げることもある。クロウルは我関せずと適当に相づちをうっていたし、とうのぼくは苦笑いでごまかしていて、その態度にまたアウラは憤慨していた。

 ある晩、めずらしく酒をおかわりしていたアウラがすっかり酔いつぶれたことがあった。クロウルは朝が早いからと介抱をぼくに丸投げしてとっくに帰っていた。普段は人間《ぼくら》のことやこの国の情勢がどうとか、そんな話ばかりしているアウラだけど、酔って脳が鈍っているせいか自分のことを話しだした。

 彼女は変異体の中でも希少種で同族がとても少なく孤立しがちだったそうだ。だからクロウルが自分に声をかけてきた時はとても驚いたとか。そのことをあとでクロウルに聞いたら『捨てられていたようにみえたから拾っただけだ』なんて言っていた。

 それからアウラは親の顔を知らないとも話す。本人はそれこそ捨てられたと思っているらしい。物心ついたときには国に保護されていて、それからいまの鍛冶屋に身を置くようになった。鍛冶屋の主人は気のいい古竜人《ドラコニアン》で、彼女を娘のようにかわいがっている。アウラから旅に出ると聞かされた時はかなり寂しそうでいまにも泣きそうだった。

 それから数日が経ったあの日。アウラは母親の灯りをみたと言い、旅に出ることを決心していた。



 翌日。気が付くと太陽の光が窓から差し込んでいた。どうやらベッドに横になってすぐ気を失ったらしい。

「あぁ…………頭が…………」

 たいして酒に強いわけでもないのにずいぶんと飲んでしまった。普段ならこんなことはないんだけど、どうにも落ち着かず酒に手が伸びていた。そしてこの体たらく。

「会わす顔がないな……」

 そう。彼女が帰ってくる。手紙を書くまめさは無くても、集合時間を守る几帳面さは持っている彼女だ。一年で帰ってくると約束をしたからには、きょう帰ってくる。

 彼女に会える。その緊張が理由で落ち着かないのだと、自分に言い聞かせた。

 胸にべったりと張り付く不安な気持ちは気のせいなのだと、自分を納得させる。

「起きるか」

 仕事は休みだ。身支度をして彼女を迎える準備をしよう。

 顔を洗い、髪を整え、着替えが終わると、タイミングよくドアをノックする音。そして同時にドアが勢いよく開けられた。

「おい! 居るか!?」

 長身で浅黒い肌をした火蜥蜴《サラマンダー》がずかずかと入ってきた。

「クロウル。いくら人間の家だからって許可もなく入るのはどうかと思うよ」

「そんなの俺とてめぇの仲だろ。無礼講だよ、無礼講」

「いいたいことはわかるけど……それでどうしたのさ、これから彼女を迎える準備をするんだけど」

「そうだよ、それなんだよ!」

「どれのことだよ」

 クロウルはいちど深呼吸で落ち着かせてから、話を続ける。

「外壁整備のやつらから聞いたんだがよ、ついさっき炎の尾がみえたらしい」

「炎の尾?」

「知らないのか? っと、そうだ、てめぇは人間だったな」

 そう言って頭を抱えるクロウルにぼくは詰め寄った。

「なんだかわからないけど、ちゃんと説明してくれ」

「炎の尾っていうのはな、俺たち火蜥蜴《サラマンダー》のような火に属する変異体が死ぬ時に発生する現象のことだ。空に向かって火柱のような光が伸びるんだけどよ、その様子から炎の尾っていわれてるんだ」

「へぇ。それは見たことがないけど、それがなんだっていうのさ」

「俺もこの目でみたわけじゃねぇから本当かわからないんだけどよ、炎の尾の色が緋色だったんだと」

「ふつうはその色じゃないのか?」

「種族によって色は違うんだ。火蜥蜴《サラマンダー》なら赤褐色、古竜人《ドラコニアン》なら深紅色ってぐあいでな」

「なら緋色は?」

 クロウルは言い淀んだ。居心地が悪そうに顔を逸らし視線が泳ぐ。

「どうしたんだよ」

「……いいかよく聞け。緋色の炎の尾は、不死鳥《フェニクス》の色だ」

 それを聞いた瞬間、なにかが割れる音がした。

「まてよ。それって」

「あいつは希少種だからな……。ほかの場所にあいつの仲間がいるって話もほとんど聞かねぇ」

「なにいってるんだよ。彼女が……そんな、わけないだろ」

 そう言って、自分の声が震えていることに気付く。そして、きのうからの拭えぬ不安はこれのことだったのではないか。そう思ったらもう止まらなかった。

「見間違いかもしれないだろ? それに少ないっていっても彼女が唯一ってわけじゃないんだ……。ほかの変異体かもしれない」

 クロウルは苦渋の表情を浮かべる。彼がこんなに辛そうにするのは初めてだった。

「不死鳥《フェニクス》の変異体は特別でな、死に際に自らの火で焼かれることで転生をするんだ。そうするとある程度の記憶はそのままに、生まれ変わるもんなんだとよ」

「そうなのか!? それならよかったじゃないか! また彼女と会えるんだよな?」

「……なぁ、てめぇもうすうす気がついてるだろ」

「気付くって、なににだよ」

「転生したあいつ自身はある程度記憶を保持する。だがな、あいつに関わっていたやつの記憶はやがて消える」

「記憶が消える……?」

 クロウルは確かにそう言った。でもそんなはずはない。いまだってぼくは彼女のことを覚えている。

「俺も身に起きるまでは信じられなかったさ。でもな、やっぱりそういうことらしい……」

「ちょっとまてよ。落ち着けって。ぼくはまだ彼女のことを覚えて――」

「じゃあいってみろよ。あいつの、名前を……」

 まったく、いつもの冷静なクロウルらしくもない。そんなことあらためて聞くなんて。忘れるわけがないだろう、彼女の名前は――――

「あれ…………」

 いったいぼくはどうしたんだ。こんなにはっきり彼女の顔を思い出せるのに。どうして…………そんなはずがない。自己紹介をした時の自信に満ちたあの声だってはっきり覚えてる。それなのに…………

「クロウル……ぼくは、いままでの会話で彼女の名前をいったか……?」

「悪いな……誰のことをいってるのかわからねぇよ……」

 彼はうつむき沈痛な面持ちをみせる。あぁ、きっとぼくも、こんな顔をしているんだろう。

      ◆   ◆   ◆

 ゆっくりと目が覚める。きょうもまたこの日がやってきた。年に一度、ぼくは壁の外に出る。

 厳しい審査を受けて時間制限もあるけど、人間のぼくが外に出れるようになったのは、クロウルが働きかけてくれたおかげだ。

 薪を組んで火を熾すと、煙が立ち昇りパチパチと火花が散る。そこに調合した粉を投げ込む。炎は緋色に変わり、さらに勢いを増した。それからぼくは、燃える炎のそばでしずかに待つ。

 なにを待っているかはわからない。ただこうすることで誰かを迎えようとしているのは確かだった。

 たぶんそれは、夢にみる女性のこと。懐かしい笑顔をみせる彼女と会いたい。ぼくの心がそう命じている。

 だからぼくは緋色の火を熾す。

 彼女がこの灯りをたどって来てくれると信じて。



 吹き荒ぶ風が耳にうるさい。

 故郷の喧騒に嫌気が差していたことを思うと、この荒野にひとりでいるのは静かでよかった。

 それでも慣れというのは恐ろしいもので、いまではただの風切音がとても響いて頭を蝕んでいく。

「ちくしょう……」

 こんなことなら国をでるべきではなかったか。

 いっそのこと、共に生まれ故郷で死ねればよかった。

 どうして俺だけが無事なんだ……。

 こうして死に場所を探して彷徨うくらいなら…………。

   ◆   ◆   ◆

 途中、若い女性の旅人に出会う。

 馬を降りて丁寧にこちらに挨拶をしてきた。

 聞けば、どうやら彼女は見識を広げるために旅をしているらしい。故郷は交易の盛んな国で俺も聞いたことのある国だった。外からくる商人の話を聞いて育ち興味があったから、家業である裁縫屋の勉強として外国を見て回っているという。道理で身綺麗な格好をしていた。

 俺はどこから来たのかと尋ねられたが、なんと答えるべきか……。

「遠くの、小さな国だよ」

 話すのはすこし堪える。言葉を濁してみたが、あまり関係はなかったようだ。彼女は臆することなく俺の国について追求してきた。

 食料をわけてもらった手前、無碍にすることもできない。なにより、ひさしぶりに人と話すことが嬉しいと感じている俺がいた。

 ため息をついて、たっぷり間をあけてから話す。

「俺の生まれ育った国はひとりの王が治めていた。年老いた王には一人娘がいて、その王女はとてもわがままだった。

 ある時、王女は老いた父の身を案じて次期王を決めようとお触れを出したんだ。つまりは王女の夫になる男を選ぶってことなんだが、その条件がとても厳しかった。それでいつまでたっても名乗り出る者はいなかったんだ。

 そうして王女がわがままを言い続けているうちに、王は病に臥してしまった。焦った王女はとうとう諦めて、条件をひとつに絞った。なんだかわかるか?」

 急に話を振られて彼女は素っ頓狂な声をあげる。考えるようにしばらく唸っていたが、首を傾げるばかりで答えはでてこなかった。

「うでっぷしに自信のある者、王女はそう言った。真意はわからないが、きっと身体の丈夫なやつがよかったんだろう。

 宮殿には腕自慢が集まって一番を決める戦いが始まった。そしてひとりの男が優勝した。

 その男はみごとに王女の心を射止め、新しい王として迎え入れられた。

 老いた前の王は跡継ぎが出来たことに胸をなでおろしたがそれもつかの間、数年後には流行り病が国を襲った。

 町医者の手には負えず、たちまち国中に広まり、老いた王をふくめ多くの被害を出し続けた」

 そこで思わず言葉に詰まる。彼女は続きをうながすようにこちらを見ていた。重い口を開く。

「新しい王は逃げた。妻を、つまり王女を見捨てて宮殿から姿を消した。行方はだれにもわからない。

 統率者が不在となり、まだ病にかかっていない民は国外へと出ていった。俺もそのひとりだ。

 だから俺の故郷に行くのはやめておいたほうがいい。あそこはもう人の住める場所じゃない…………」


 途中、二人組の盗賊に出会う。

 壮年で背の低い男と、もうひとりはまだ年端のいかぬ子供だ。

 俺の身ぐるみを剥ごうと襲ってきたが、戦術も戦略もなくただ突っ込んでくるだけのお粗末なものだった。

 適当にあしらい、武器を取り上げる。疲労が溜まっているとはいえ、この程度のゴロツキなら相手にならない。

 力量差を見せつけられた二人組は態度を一変させ、ひたすら平謝りをしだした。

 聞けば、彼らは親子で、なにやら重罪を犯して国から追放されてしまったらしい。

 職に活かせる技術もなく、こうして遭遇した旅人を手当たり次第に襲っているんだとか。

 話を聞いてやっていると弟子にしてくれなどと言ってきた。

「落ち着きな。俺はただの流浪だ。下についたってしょうがないだろ。それよりもどこかの国でちいさな仕事でもいいから見つけるといい。子供がいるならなおさらだ」

 しかし親子はすっかり自信を失っているようで首を横に振るばかり。よほど前の国では辛酸を嘗めたらしい。

「そうだな……ここから東に進むと交易の盛んな国がある。俺は行ったことはないが、そこでは素性に関係なく商売ができるらしい。

 だがいきなり自分たちで商売をするのは難しいだろうから、どこかの店で仕事を探すといい。裁縫屋なんてどうだ? きっと人手が足りてないとおもうぞ」


 途中、森のなかに住む老人と出会う。

 日差しを避けようと踏み入った森に人がいるとは思わず、俺は慎重に様子をみた。白髪の老人は人の良さそうな笑顔で俺を迎える。

 趣きのある小屋には一人暮らしとは思えないほど家具や小物が充実していた。

 聞けば、その昔に故郷が天災にみまわれ家族と離ればなれになってしまったそうだ。それからは故郷からほど近いこの森に居を構え、家族との再会を願っているという。

「あなたのものとは思えない調度品があるが、もしかしてその家族が使っていたものですか?」

 老人は頷いた。

 いつか家族と会えた時のために、故郷から出来る限りのものを持ちだしてきたそうだ。

 ひさしぶりに見る日常的風景は故郷を髣髴とさせる。子供用の雑貨や女性物の日用品も目につく。俺は締め付けられる思いにつらくなり、歓迎してくれた礼を言ってすぐに出ることにした。

 老人は去る俺へいつでも来るといいと言葉を添えてくれた。

「感謝します。ご家族と会えることを願っています」


 途中、遊牧民のような人々と出会う。

 家畜はいなかったが移動式住居ではあるようだ。集落を治めているらしい若者が迎え入れてくれた。その長閑な暮らしぶりをみて、ここでも死ねそうにないと肩を落とす。

 ここに住む人々は総じて若く、俺ぐらいの年配者の姿はほとんどない。遊牧民の暮らしぶりをよくは知らないが、年老いた者には厳しいものがあるのだろうか。

 流浪の身である俺がぶしつけに聞くようなことでもないから、無駄口はきかないようにしよう。

 丁重にもてなされること数日。体力が回復したところで出発をすることにした。

「食料までいただいて助かります」

 代表の若者に丁寧にお礼をつげた。そしてもう会うことはないだろうと、最後に気になっていたことを聞いてみる。

「みなさんはどこから来たのですか? みたところ若い人ばかりで子供も少ない。長くこの生活を続けているとは思えない」

 俺の質問に若者は快く答えてくれた。

 聞けば、彼らは故郷を出て行く必要があったため仕方なくこの遊牧生活を始めたという。彼らは言わなかったが年配者がいないのも同じ理由だろう。

 話を聞き終わると、彼らは出発しようとする俺を引き止める。ここに残って暮らさないかと言ってくれたのだ。

 忘れようとしていた人との繋がり、その温もりに俺の心は揺さぶられる。

 しかし、故郷を出た時のことを思うと頷くことは許されない。俺がまだ生き長らえていることすら間違っているのだ。

 俺は言葉が喉からでてしまう前に首を横にふる。

「せっかくですが先を急ぎますので」

 もちろん行く宛などない。だがこうでも言わなければ俺の心が耐えられなかっただろう。人という存在はそれほどに心を縛るのだ。

 若者は渋い顔をしていたが俺の気持ちを汲んでくれて、強く引き止めはしなかった。

 そして最後にアドバイスを求められた。どうやら次の目的地を決めかねているようで、旅をしていた俺にいい場所はなかったかと。

 俺はあることに思い当たって、その場所を教える。

「ここから数日ほど南下したところに広い森がある。居を構えるには向かないが、きっとみなさんにとっていい出会いがありますよ」


 どれほど経っただろう…………。

 もう長いこと彷徨っている。食料も底をつき、いままでのように誰かから恵んでもらえる機会はパタリとなくなった。街や村の光景もいまは懐かしく思える。

 渇ききった身体では足取りも重く、目が霞んできた。どうやら限界が近いらしい……。

 砂塵にのまれながら膝をつく。そのまま崩れるように倒れた。

 あぁ……こんなところで絶えることになろうとは……。

 いや、どこであろうとまともな死に方はできまいと腹は括っていたはず。このまま地に還るのならば願ったりだ。

 これで……やっとぐっすり眠れる…………。

   ◆   ◆   ◆

 声がきこえる。女性のしずかな声だ。エンリカ……すまない……。

 耳に馴染む澄んだ声にだんだん意識がはっきりしてくる。

 ゆっくり目をひらくと、見慣れない景色が飛び込んできた。改めて、意識があるという信じられない事態に唖然とする。

 手足にちからを入れてみる。身体は動く。どうやら、俺はまだ――

「生きてるのか……」

「死んだかとおもったよ」

 ふいに聞こえた男の声。ちからなく身体を起こして声の主を見やると、まだ十代であろう若い青年だった。

 その隣に、あどけなさが残る少女が俺をやわらかい笑顔で見ている。

「気分はどうですか?」

「あぁ……俺はいったい……」

 朦朧としながらあたりを見回すが、見慣れない部屋の様子に不安が拭えない。

「スレンが外で倒れているあなたをみつけて助けたんですよ」

「拾っただけだよ。目の前で死なれるのは寝覚めが悪いから」

 少女の言葉にスレンと呼ばれた青年が答えた。

「俺を助けた? よけいなことを……」

 つい口に出た本音に、青年が眉をひそめた。

「なんだ、死にたがりか。そいつは悪かったな。とめやしないから目の届かないところで死んでくれ」

「ちょっとスレン。そんなこと失礼でしょ」

「いいんだよ。たとえ王様でも、あんなとこにひとりで行き倒れるようなバカ野郎なんだから」

 ふたりの会話を聞いて衝撃が走る。どうしてか素性がばれているようだった。

「きみたち、俺がだれなのか知っているのか……?」

 俺の問いにふたりは顔を見合わせる。そして少女が言う。

「わたしは知らなかったけど、スレンがあなたを見たことがあるって」

 見たことがあるだって……? だが俺はこの青年は知らない……。

 俺の困惑する雰囲気を察したのか、

「あんたが嵌めてる指輪の印、四つ葉の紋章はホワイトウォルドの徽章だろ。そんな大層なもんわざわざ身につけてるのは王族くらいだ」

 すらすらと喋る青年の言葉が耳に痛い。自分が何者だったのかを思い知らされる。

「まだある。ホワイトウォルドには戦闘演習に行ったことがあって、その時にあんたの顔を見たんだよ。あんたからしたらこっちは有象無象のひとりだから、覚えてるわけもないけど」

「なるほど。そういうことか……そういえば何度か演習にきていた国があったな。やけに原始的な戦いをしていて驚いた覚えがある」

「うちは銃火器に慣れてないもんでね」

 青年はいじけるかのように言葉を尖らせる。その代わりに少女が続けた。

「あなたはどうしてひとりでここまで来たんですか? 倒れるほどボロボロになってまで」

 そう問われ、どう答えるか迷った。

 正直に話す義理はない。俺は死のうとしていたところなんだ。このまま何も語らず立ち去ることもできる。青年は俺を引き止めはしないだろう。

 だがこの少女はどうだ。あどけない瞳には心の強さを感じる。俺の素性を知ったにもかかわらず同情に近いなにかを感じているのだろう。黙って見送ってはくれなさそうだ。

 観念した俺は故郷であった病のこと、妻を捨ててきたことを話した。

 静かに聞いていたふたりだったが、話しを終えるとひどく表情を歪めている。少女は悲しそうに顔を伏せ、青年は憤然とした面持ちだった。

「それじゃあ、あたなの国はもう……」

「あぁ……いまごろは誰もいなくなっているだろうな」

「それであんたも死んで、すべて終わりにしようってんだ。見下げ果てたバカ野朗だな、まったく」

「なんだと?」

 青年のあまりの言い分に思わず言葉が強くなってしまった。

「王女さんはなんのためにあんたを国から逃がしたとおもってるんだ。生きてほしいからだろ! あんたが死のうとしてるのはただ逃げてるだけじゃないか」

「ちょ、ちょっとスレン」

「リズは黙っててくれ。いいか、あんたの命は生かされたものなんだ。それを捨てて楽になろうなんてふざけるなよ! あんたが亡くなった王女にしてやれる唯一のことは生きること! 泥水をすすってでも生きて人生をまっとうすることだ!」

 声を荒げる青年にひどく動揺した。

「きみたちはどうして俺にそこまで……」

「…………わたしと兄は幼い頃からふたりで生きてきました」

 息を乱した青年に変わり、少女が静かに話しだした。

「お母さんはわたしが物心つく前に病気で亡くなりました。兄からお母さんのことを聞いていただけで顔もよく覚えていません。それでも、お母さんがわたしたちに残してくれたものがあります。それを見るたびにお母さんの愛情を感じることができました。おかげでわたしたちは生きようとすることができていたんです」

「……父親は、いないのか?」

 俺の問いかけに少女は苦しそうに笑う。

「国王だった父はお母さんのほかにも妾がいて、それを知ったお母さんは城を出ていったそうです」

「リズ。あれは、父親じゃない」

「わかってる。話の流れでしょ。……わたしたちは貧しくて辛い生活を送ってきました。それでも必死で生きています。わたしたちが生きるのを諦めたらお母さんに顔向けができませんから」

「わかっただろ。あんたはせっかく生かされた命を捨てようとしてるんだ。そんなふざけた考えしてるバカ野朗が許せないんだよ。地べたを這いずり回ってでも生きてみせろ。どんなに辛くても、それでも人生は劇的だ!」

 俺を見るふたりはとても自信に満ちた表情だった。きっと彼らはそれだけの経験を経ていまを生きているのだろう。平和に育ち、安穏と暮らしてきた俺とは比べ物にならないほどの、険しい道を歩んできたのだろう。躓いたぐらいで立ち上がるのを諦め、差し伸べられた手を取ろうとしない俺とは違う。そうだ、彼の言うとおり俺は逃げているだけなんだ。

「まったく……何をしているんだろうな、俺は。国を捨て、逃げた先で自分の半分ほどの子供に叱咤され、いまさら……後悔するとは……」

「いまからでも遅くはないですよ。ここからまた人生をはじめましょう」

 少女の変わらない優しい声。

「ちょうど、銃火器を扱える職人がほしかったところだ」

 青年の変わらない尖った声。

「俺に……まだ生きろと……?」

「「もちろん!」」



 我が愛するエンリカ。

 君を想うといまでも眠れぬ夜を過ごす。

 君の姿を思い出すたびに後悔に苛まれる。

 君の声を聞きたいと何度も夢をみる。

 あぁ、君にあいたいよ。

 こんな気持ちになるなら、やはり死んだほうが良かったとさえ思える。

 エンリカ、すまない。

 それでも君にあえるのは、まだ少し先にになりそうだよ。



 ピロリン


『はじまめして

 わたしはしミオリといいました

 とつぜんのめーるをおくりますて、すみません

 よろけしればめーるのあいてをしてくれます

 おへんじまっていました』


「なんじゃこりゃ」

 携帯に届いたメールを開いてみたら奇怪な内容が映されていた。

 ひらがなで形成された文章は全体的におかしく、単語もまともじゃなかった。

「迷惑メールにしちゃできがわるいな」

 僕はすぐにメールを閉じて携帯をたたんだ。

「ひさしぶりに鳴ったとおもったら迷惑メールとは、むなしいな」

 アルバイトの休憩中。もはやバイト先の店長への専用電話と化している携帯をぱかぱかと持て余していたところだった。

 誰からも連絡などこないとわかっていたのに、ひさしぶりの電子音に少なからず嬉々とした自分にがっかりする。

 携帯などいっそ捨ててしまいたい。

 何にも縛られることなく過ごしたい。

 そう思っても出来ない現代社会にますますがっかりする。

「やめやめ。はぁ……仕事にもどるか」

 椅子から立ち上がると、ふとさっきのメールに意識をもっていかれた。

 携帯を開き、再び謎の迷惑メールをみる。

「こんなんに反応するなんて世も末だろ」

 自嘲するようにつぶやき、携帯をポケットにねじ込んだ。

 大学を卒業して数ヶ月。就職に失敗した僕はアルバイトをするだけの毎日を過ごしている。

 コンビニと居酒屋というテンプレな掛け持ちバイト。アパートに帰ってはほとんど寝るだけで、寮暮らしの時よりもさらに生活水準は下がっていた。

 卒業後に実家へ戻るのはためらわれたので安アパートに引っ越したのはいいが、ワンルームの部屋に布団と最低限の家具を買い揃えたら貯金はすっかりなくなってしまい、結果アルバイトの数を増やすことに。そしてこの有様だ。

 学生時代の生き甲斐だったロードレースもいまはもうすっかり遊びのレベルに落ち着いてしまい、相棒は部屋の片隅で飾られている時間のほうが長い。

 大学の友達はみんな勝ち組路線に乗ったみたいで、連絡をとることはなくなった。僕から連絡をするのは惨めな気分になることがわかりきっていたし。

 そうして知り合いと呼べる関係はほとんどなくなり、僕の携帯電話はもうずいぶんと鳴っていなかった。


『初めまして

 僕の名前は碧生《あおい》です

 大学生をしていました

 あなたはなにをしている方ですか?』

 返事がきたのは三日後だった。

 すっかり忘れていたころにきたメールは最初よりいくぶん読みやすくなっている。

『ありがとうございました

 ミオリはがくせいをしています

 いまがとてもたいくつです

 あなたのことをもっときかせてください』

「学生さん?」

 ほんとうならただの迷惑メールじゃなさそうだな。

 そういえばサイトのアドレスとかも載ってないけど、まさかね……。

 疑念がありつつも僕はまたメールを返す。

 会話をする相手がいなかった反動か、愚痴のような身の上話をつらつらと話してしまう。

 そんな内容にもかかわらず向こうは律儀に返信をしてきた。

 いや、そもそも向こうからメールを送ってきたんだから当然ではあるか。

 メールの返事もしだいに早く返ってくるようになってきて、いまでは数分で携帯が鳴るほどだ。

 最初はただ暇つぶしになればいいと思っていたけど、いつしかこのメールを楽しみにしている自分がいた。

 あるとき、彼女が言った。

『あおいさんは将来のことは考えてますか?』

 普段は他愛もない日常話しかしていなかったのに、いきなりの質問に戸惑った。

 ただ毎日を消費しているだけの自分に目的意識なんてない。

 真面目にロードレースをやっていた頃は目指していたものがあったけど、いまはもう……。

『考えてないよ

 まだあせるような時期でもないしね笑』

『むかしやっていた自転車競技は続けないの?』

『やらないよ!

 趣味で乗ることはあるけどね』

『そうなの?

 もったいないと思うけど

 あおいさんがそう言うならしかたないのかな』

『みおりさんは将来のことはなにか考えているの?』

『考えてはいるけど

 ミオリの場合は実現することはないから笑』

『どういうこと?

 そんなに難しいことなの?』

『うん

 言葉の通りだよ』

『よかったら聞かせてくれないかな』

『あのね

 あおいさんと会って直接お話がしたいの』

 それが将来についてのこと? 僕と会うことが?

 いまだに彼女の言葉はわからないところがある。

 正直なところ彼女にはそれなりに好意を持っているし、メールのやりとりだけじゃなくて会って話もしたい。

 だから実際に会うことにはなんの問題もないのだけど、どうやら彼女はそうではないらしい。

 でも、

『僕は会うことには賛成だけど

 みおりさんにはなにか会えない理由が?』

『うーんと

 会うことはできるけど……

 直接お話をするのは無理だから

 それは話せるときがきたら話すね』

 そう言われれては追求もできない。

 僕は釈然としないまま別の話題でメールを続けた。

   ◆   ◆   ◆

 彼女とメールをするようになってから数ヶ月が経ったあるとき、思いがけないメールが届いた。それは僕と会えるようになったというものだ。

 会えるようになるという、まるで誰かの許可が必要だったような内容にあいかわらず違和感を覚える。まぁ彼女の言葉がふわふわしているのはいまに始まったことではない。

 待ち合わせ場所はよく知っている公園。近くの大きな病院には何度か通ったことがある。

 約束の日にちは彼女が予定を変えられないみたいで、僕はなんとかバイト先に都合をつけて一日休みをとった。

 じゃっかん緊張しつつも普段の装いで公園に向かう。休日ということもあって広々とした公園はそれなりの賑わいをみせていた。家族連れや部活動中の学生の姿もある。

 公園の中ほどまでくると目印の噴水が見えてくる。そこにひとりぽつねんと佇む女性の姿が目に入ってきた。

 落ち着いた色のワンピースにストールを巻いている恰好はかなり大人びている。長いと思われる髪も後ろでまとめているようだ。

 当然それが彼女であるとは思わない。年齢をきいたわけじゃないけど学生という話は嘘じゃなさそうだし、メールの文章もどこか子供っぽさがある。

 そう考えていたのに、女性はこちらに気づいて近づいてくるではないか。そして、

「こんにちは、常盤碧生《ときわあおい》さんですよね?」

 声をかけてきた。しかも僕の名前を知っている?

 思わず頷いたものの、唖然として声は出ない。そんな僕にかまわず女性は続けた。

「会えてよかったです。妹のところへ案内しますので、どうぞこちらへ」

 そう言って女性は歩き出してしまい、僕は付いて行くしかなかった。

 道中、喋ろうとしない女性にしびれを切らして質問をぶつける。

「さっき妹っていってましたけど、みおりさんのお姉さんという解釈でいいんですか?」

「えぇ、それでまちがっていませんよ。あなたのことは妹からよく話を聞いてます」

 お姉さんは微笑みながら答えるが、どこか憂いを含んでいるような気がした。

「えっと、みおりさんは来られなかったんですか?」

「すこし違います。はじめから私があなたを案内する予定でしたから」

「でもそんなことは一言も……」

「きっと言い出せなかったんでしょう。あの子、ぎりぎりまで迷っていたので」

 にこやかにしてはいるが会話を楽しむような雰囲気ではなく、僕は黙ってお姉さんの後をついていった。

 そうして辿り着いた場所は公園からそう離れていない、よく知る建物。

「……みおりさんはここにいるんですか?」

「はい」

「まさか入院しているなんて言わないですよね」

「――こちらです」

 無言の答えが返ってきた。

 これはどういうことなんだ。彼女からそんな話は一度もなかった。

 僕と会う約束をした後で入院したというなら別だけど、それはそれで何か連絡があるはず。

 お姉さんの態度もいたって平静だ。彼女の入院はいまに始まったことではないということだろう。そうでなければ、こんなに落ち着いてはいられないはずだ。


 見慣れた病院内を歩き、だいぶ離れたエリアへ連れてこられた。

「ここです」

 そう言ってある病室の前で立ち止まる。

 扉には|鐘村命織《かねむらみおり》という札がかかっていた。

 現状への確かな認識を持ったら急に全身のちからが抜けるようだった。

「中へどうぞ」

 お姉さんが扉をあけて先に中へ入る。

 僕は深呼吸をしてから、あとを追うようにゆっくりと扉をくぐった。

 病室内の光景は覚えのあるものとは少し違っていた。

 ワンルームぐらいの広さ。壁際に事務用のデスクがあり、書類が山のように積まれている。

 窓際の一角には屏障があり、おそらくその奥に病床があるのだろう。屏障の脇にはなぜかカメラが設置されていて大きめのレンズがこちらを捉えている。そのカメラに並ぶようにパソコンのモニターが白い画面を写していて、チカチカと点滅する棒が表示されている。

 その奇妙さに飲まれることしばらく。黙っていてもしかたないと、お姉さんに質問を投げかけようとしたときだった。

 白い画面だったモニターにふいに文字が映しだされた。ゲームのテキストが表示されるようによどみなく文字が浮かび上がる。

『あおいさん。やっと会えて嬉しいです。っていっても、こんな状況がはたして会えたことになるかびみょーですよね。対面すらできてませんから』

 みおりさんが、無言のまま話している。

 僕はいつものように、そういつもメールで話すように、言葉を返した。

「初めましてっていう気分でもないね。こうやって文字で会話をするのはいままでと変わらないし」

 数秒の間。

 それから、

『驚かないんですか?』

「ん? もちろんびっくりしてる。どういう状況なのかまだ理解はできてないけど、たぶん、みおりさんのあの言葉を聞いてなかったら頭真っ白だったかもね」

『会うことはできるけど直接お話しはできないと言ったあれですか』

「うん。あれで複雑な事情があるのは察したし、お姉さんにこの病院に連れられた時点でなにかしらの覚悟ができてたみたい」

『そうですか。それじゃあ、これからお話することを聞くのはもっと覚悟が必要だと思うので、心の準備をしてください』

「ミオリ。私から話そうか……?」

『だいじょうぶだよ、おねえちゃん。ちゃんと自分で話したい』

「そう。わかった」

 そうつぶやいたお姉さんは病室を後にする。その去り際「ミオリを……いえ、妹をお願いします」と、霞む声を聞いた。

   ◆   ◆   ◆

 生まれつき脳に障害があった鐘村命織《かねむらみおり》が眠りについたのは五年前。

 医者の父親によって日々治療を受けていたが、深刻な状況を打破するために一種の凍眠状態をとることになる。

 将来娘が意識を取り戻したときのことを考えた両親は、彼女に代わる意思を用意することにした。

 それは彼女の母親が研究をしていた人工知能だった。

 鐘村命織がいままで経験した記憶をデータ化して人工知能へと学習させる。そして人工知能が得たデータは彼女へと還元をする。そうして空白期間を埋めようとした。

 人工知能はミオリと名付けられ、少しづつ成長をしていく。

 ミオリはここ一年ほどで自ら外部へと接触を持とうとし、情報収集をした結果選ばれた三人にメールを送った。

 そして反応をみせた唯一の人間が常盤碧生だった。

 碧生とのやり取りを通してミオリの人工知能はより強い自我を持つようなり、やがて鐘村命織と存在を分かつほどになる。

 そうした矢先、鐘村命織が目を覚ます見通しがつき、ミオリの意思は彼女へと統合される手はずとなった。

 ミオリは自分の存在が一度失くなることについて、碧生へと伝えることを決める。それが今日この日だった。

   ◆   ◆   ◆

『そういうわけで、ミオリは鐘村命織へと還りますからしばらくお別れです』

 締めの言葉のようにモニターへ表示された言葉。

 僕が考えを巡らせて黙っている間も、それより先は紡がれなかった。僕の反応を待っているのか、それとも本当にこれで最後にしようとしているのか。

「いままで僕と話をしていたのは人工知能のミオリさんだったってことか」

 数秒の間。

 それから、

『そうです。でも安心してください。いままでのあおいさんとの出来事はちゃんと鐘村命織にも受け継がれます。だからあおいさんからすれば何も変わらないんです。ただ、ミオリという存在が失くなるだけ』

「そういわれてもあっさり気持ちの切り替えは、むずかしいな」

『約束します。鐘村命織が目を覚ましたら必ずあおいさんに会いに行くと。それまではしばらく連絡はとれなくなってしまうけど』

 メールをしていたのはミオリさんだけど、これから彼女、鐘村命織に存在を統合されてしまい彼女が目覚めるまではなにもできなくなるということか。

 でも正直なところ、いまの話を全部信じられるほど素直ではなかった。話半分というか、きっとミオリさんが人工知能であることについては間違いはないのだろう。ただその後、ミオリさんの意識が鐘村命織という人に統合されるというのは疑いを持つ。

 すでに僕の理解を超えた話なんだ、信じる信じないの判断はもう本能に頼るしかない。そうなると、

「ミオリさん。やっぱり僕はそんな話じゃ納得できない。きみがいうところの鐘村命織が目を覚ましても、それはきみじゃないんだろう?」

『その認識は正しくないよ。ミオリと鐘村命織は本来一人なの。いまは鐘村命織が眠っているからミオリが起きている。だから鐘村命織が起きればミオリは眠る。それだけのことだよ』

「それでも僕はミオリさんと話がしたい」

『あおいさん、それは』

「だから! 僕をきみたちのそばにいさせてほしい」

 数秒の間。

 それから、

「もしこのまま目覚めた鐘村命織に会ったとしても、僕はいままでのようには接することはできない。ミオリさんの言葉を全部信じたわけでもないし。だから鐘村命織の目を覚ます手伝いをさせてほしい。そうすれば僕は鐘村命織とミオリさんの二人を知ることができる。それならミオリさんを、二人を信じることができると思う」

『ミオリと鐘村命織は一人だよ』

「それでも、ね」

 数秒の間。

 そして…………

   ◆   ◆   ◆

 大学を卒業して数年。紆余曲折あったけど知り合いの紹介でいまは医療関係の仕事に就き、忙しくも充実した日々を送っていた。

 アルバイト時代と変わらず仕事のあとは帰宅して寝るだけの毎日が続いている。それでも充実していると言えるのは、たまの休みにロードレースを楽しむことができているからだ。

 あれからいろいろと話し合い、やっぱり僕は自転車で走るのが好きだという結論になり、趣味の範囲ではあるけどいままでよりは楽しく走れている。

 そして毎日の習慣になった命織さんとの電話。

 目を覚ましてから様態は安定しているけど、まだ退院するにはいたっていない。外出もできないし、面会ができるのも限られている。だから毎日決まった時間に少しだけ電話をする許可をもらった。 

 彼女の明るい声を聞いているとこちらも元気を分けてもらえた気になる。もちろん、年下である彼女を元気づけることもある。はじめはかなり弱気になっていたところもあった。

 それから、もうひとつ。

 彼女とのメールはいまでも続いていて、僕の携帯電話はきょうもメールの着信音が鳴る。

 ピロリン

『電話ばっかりじゃなくて

 ちゃんとミオリの相手もしてください!』