先生に頼まれた作業が終わり教室に戻ると数人が残って雑談をしているだけだった。さして仲が良いわけでもないクラスメイト、気にすることもなく自分の席から鞄を取る。忘れ物がないか机の中を確認していると、廊下からキャーキャーと黄色い声が響いてきた。何事かと開けたままのドアから廊下に意識を向けるけど、それらしい人影は見えない。

「なんなのかしら……?」

 残っていたクラスメイトも廊下を覗いてたようだけど、すぐに雑談を再開していた。

 私もどうでもよくなり鞄を手に挨拶をすることなく教室を出た。

 下駄箱までくると、ザーっというノイズが耳にはいってきた。

 肌にまとわりつくベタついた空気のなか淀んだ匂いが鼻腔をくすぐる。

「うわぁ降ってる」

 予報を裏切った曇天の空から降る雨を見て誰に言うでもなく文句を呟く。

 雨は好きじゃない。髪はハネるし靴はぐちゃぐちゃになっちゃうし、肌がベタベタするのも煩わしい。出かける予定を中止にすることもある。悪いことのほうが多いと思う。

「どうしよう……」

 急がないと母に頼まれたスーパーのセールに遅れちゃう。でも私は傘を持っていない。降水確率40%で傘を持って出かけるほど私は堅実じゃない。邪魔になるものは持たない主義だ。

 それほど強くはない雨だけど駅までとなればかなり濡れるのを覚悟する必要がある。暖かくなってきた時期とはいえ濡れて風があたれば身体は震える。こんなことで風邪など引くのも馬鹿らしい。

 なんとかできないか考えるのも僅か、これといった妙案は浮かばない。

「これは諦めるしかないかしら……」

「なにを諦めるんだい?」

 私の呟きに応える声が聞こえて驚き振り返る。視線の先には見慣れない男子が立っていた。真っ黒なぼさぼさの髪にだらしなく着た制服。なのにどこか清潔感があり、のほほんとした表情は人柄の良さを感じさせる。何より驚いたのは雪のように肌が白かった。漂白剤にでも浸かってたのかと思うほどに白い。この人は日光が怖いのだろうか……

 ネクタイの色からして同じ2年生だとわかったけどやっぱり見憶えはなかった。まぁ同学年の生徒を全部知ってるわけじゃないのだけど。

「えっと……なんですか?」

「さっきから外を見て立ち尽くしてるし何か呟いてるから、どうかしたのかなって」

 そう言われて自分が下駄箱の前に陣取りぶつぶつ言っている、どうみても変な女と化していることに気づいた。初対面の相手に見られた気恥ずかしさとの二重苦に、私はその場から逃げたくなった。

「なんでもないです。それじゃ……」

 そそくさと革靴に履き替え外に出ようとしたけどさっきのぼさぼさ頭が私を呼び止めた。

「ちょっと、雨降ってるよ!?」

「わ、わかってます」

 わかってはいるけどこの場から早く離れたい。でも外に出れないという現状に私は為す術がなかった。

 互いにどうするべきか沈黙していると彼が先に口を開いた。

「傘がないから困ってるみたいだね、良かったらこれ使いなよ」

 そう言われ視線を向けると、彼は手に持っていたカラフルな小さめの傘を差し出している。オシャレとは言えないその傘は男子高校生の持ち物とは思えない。背の高い彼が持っているとより小さく見える傘は女子の私でも使うのを躊躇われる柄だ。

「でもそれはあなたが使うでしょ……?」

「僕も傘がなくてさ、これはさっき職員室で忘れ物だったやつを貸してもらったんだ。だからきみが使っていいよ」

「それは助かるけど、あなたはどうするの?」

「女の子は雨に濡れると大変でしょう。僕は平気だから」

 そう言って差し出されたサイケデリックな傘をつい受け取ったはいいけれど、私は使うのを躊躇ってしまう。でもせっかく譲ってもらったのに使わないわけにはいかない。私が善意と羞恥で葛藤していると、カチャカチャという音と共にこちらへ女子が駆け寄ってきた。私はあわてて傘を背に隠した。

「相川くんおまたせー。それじゃ帰ろっかーって、あれお友達?」

 ぼさぼさ頭の彼に擦り寄るのは見たことがあるギャルの子だ。明るく染まった髪にところどころ改造した制服、ぬいぐるみのキーボルダーがじゃらじゃらしたスクールバッグ。グループもタイプも違う、よほどのことがなければ関わらないような子だ。立ち去ろうにも、彼にまだお礼も言っていない。このまま黙っていくのも感じが悪い……

「僕は初めましてなんだけど、如月ちゃんは友達?」

「うーん? こんな地味な子知らないなー」

 人が気にしてることをあっさり言ってるくれるじゃない、このギャルは。

「まーいいや。行こっか相川くん」

「ごめん、傘がないんだ」

「だいじょーぶ。あたし折りたたみ傘持ってるから、一緒に相合い傘しよっ」

「持ってるんだ? あぁよかった、それなら行こうか。えーっと……三島さん、またね」

 私は名前を呼ばれびっくりした。すれ違う彼はひらひらと手を降っている。挨拶を返そうとしたけどとっさのことでうまく言葉がでなかくて、

「えぇ、また」

 なんて事務的な口調になってしまった。

 ぺらぺら喋るギャルの勢いに押されてか彼は足早に行ってしまう。仲睦まじげに相合い傘で去っていく後ろ姿を見て、私は爆散しろと強く思った。そしてお礼を言うのもうやむやになった。

 耳に流れ込む雨音で些細な怒りも鎮まり冷静になると、ふと彼の言葉を思い返す。

「……あれ、私の名前」

 彼は私の名前を呼んでいた。初対面のはずじゃ? 彼もそうだと言ってたはずど。不思議に頭を悩ましていると今度は担任の男性教員から声をかけられた。

「三島さん、そんなとこに立ってどうかしましたか」

「先生」

 下駄箱の前を陣取る変な生徒をみつけて、担任である初老の男性教員が心配そうに近づいてきた。

「別になにもしていませんよ。帰るところです」

「そうですか。おや、ずいぶん奇抜な柄の傘ですね。三島さんはそういうものが好きなんですか?」

 私が手に持っている極彩色の傘を見て、伊万里先生は嫌味のない優しい口調で聞いてきた。

「いえ、これは忘れ物だったのを借りた――らしいです」

「忘れ物? 忘れ物の貸し出しなんてしていないはずですが」

「……そうなんですか?」

「えぇそうですよ。貸し出し用の傘ならありますが普通のビニール傘です。どうみてもそれは学校のものではありませんね」

 私は思ってもないことに頭が混乱して黙りこんでしまう。伊万里先生は「ふむ」と顎に手をあてて考える仕草をとってから私に言葉をかけた。

「きっと、あなたに貸してくれた人が素直ではなかったのでしょうね」

 それだけ言い残し伊万里先生はコツコツと音をならして歩き去っていった。

 先生が言った言葉の意味を反芻して思い至った私は、改めて手にある傘をよく確認する。ぐるぐると眺め回すと持ち手の部分に『あいかわ』とシールで貼ってあるのを見つけた。そして彼とのやりとりを思い出してついため息がでた。不器用なのか照れ隠しなのかわからないけど、そういうことらしい。

「ありがたく使わせてもらいます」

 私はサイケデリックな傘をさして帰り道を急いだ。

 そしてその日の雨音は少しだけ心地よく聞こえた。



 八月中旬。真夏日になるという予報通りの晴天。肌を刺すような暑さの日中に多くの家族連れがここを訪れる。広くはない敷地内に碁盤の目のように等間隔で並ぶたくさんの墓標。細い通り道を走り回る小さな子供に、それを注意する父親。水をまき語りかけながら墓の掃除をする老夫婦。

 都心部から離れたこの霊園が人で溢れる唯一の季節。管理を任されている鷲崎禎宏は、墓参りにやってくる家族の対応に追われていた。名簿に名前を書いてもらいバケツや柄杓を手渡す。線香などの品も販売しているのでそっちも鷲崎が対応しなくてはならない。

 一息ついた頃にはすっかり太陽が傾いていた。「やれやれ。この時期だけとはいえやっぱり大変だな」愚痴を漏らしながら団扇をあおぎ、スポーツドリンクを喉へ流し込む。中年と称される歳になった鷲崎には炎天下での作業はとても堪え、痩せてるとはいえない重そうな体躯は疲労を加速させていた。

 鷲崎はこの霊園を経営している両親の手伝いとして、お盆期間だけ管理を任されていた。短い間とはいえ快適ではない環境を考えると面倒なことに他ならない。だが独り身の鷲崎には断る理由もなく、せめてもの親孝行だと自分に言い聞かせ、額に汗を流すのだった。

 しかしその大変な作業のなかで鷲崎はある楽しみを見出していた。「最近の子供は外でもゲーム機で遊んでいるんだなぁ」それは霊園に訪れる人々の観察だった。場所柄なのか様々なタイプの大人や子供が目に止まり、それらを比べたりし、違いを見つけるのが面白いと感じるようになったのだ。それからは人間観察を楽しみとして霊園での仕事をこなしていた。

 日差しも弱まり気温も落ちてきたころ、鷲崎がパイプ椅子で背を伸ばしのんびりしていると一人の男が声をかけてきた。「すみません、バケツを貸してもらえますか」男にしては少し高めのおとなしい声に鷲崎は思わず顔を覗いた。「はいはい。こちらです。あとこっちに名前も記入してください」長めの髪は今風の褐色に染まり、整った顔立ちでかなり若く見えた。「にいちゃん一人かい?」鷲崎がいつものように気軽に声をかけると若い男は苦笑いをして「みんな忙しくて」とだけ言った。

 バケツと柄杓、ついでに拭きタオルも渡された若い男は会釈をして園内へと歩いていった。「こんな時間に一人で来るなんて珍しいのがいるもんだ」しばらくの観察では見なかったタイプの男に鷲崎はついつい目で追ってしまう。とはいえいつまでも見てるわけにはいかないと、近づく閉園時間にむけて徐々に片付けを進めだした。

 しかし数分もしないうちにまた声をかけられた。「すまない、ここにナルカミトールという男が来ていないか?」鷲崎が顔を上げると金髪の女性がどっしりと構え睨みをきかせていた。「は、はい。なにか?」相手はどう見ても年下だったが、鷲崎はその眼力に気圧されてしどろもどろになる。「ナルカミトールという男が来ていないかと聞いている」パンツスーツ姿の女性は同じ質問を繰り返した。それを聞いた鷲崎はふとどこかで聞いた名前だと記憶を漁る。「お、お待ちください」女性に一言かけてから片付けようとしていた名簿を手に取った。しばし目を走らせ「そうそうあの人だ」最後に書かれた鳴神透という文字を見つけた。「どこにいる」有無を言わさない荘厳な女性の言葉に鷲崎は息を呑む。「一人でいる奥の男性です。茶髪の」それだけ聞いて女性は「助かった」と一言でお礼を投げ、奥へと歩き去った。鷲崎はしばらく呆然としているも我に返り、何も見なかったようにしずしずと片付けを再開するのだった。

  ◇  ◇  ◇

 最寄り駅からバスで二十分の場所にある霊園は都心から離れているにも関わらず利用する人が多い。初めて来た時は人の多さに驚き、次回は時間をずらして落ち着いている時に来ようと決めていた。騒がしいというわけではないけどやはり雑音が多いと落ち着かない。透はそう考えて人が少なくなる閉園間近を選んでいたが、まさか見ず知らずの女性が闖入してくるとは思ってもいなかった。

「いやぁ悪かったネ、いきなり連れ去るようなことしちゃってさ」

 場所は変わりファミレスのテーブル席。安さが宣伝文句のファミレスだというのに、二人はドリンクだけ注文するという迷惑行為をしていた。正面に座る金髪の女性を前に、気の弱い透は借りてきた猫のようにおとなしくなっていた。

「えぇと、芳野さん、でしたよね?」

「そうだよ。いまは芳野志摩《よしのしま》と名乗ってるんだ」

 透は初対面でまだ名前しか知らない、しかもその名前すら疑わしい女性を訝しげに見つめた。勧誘か宗教か、とにかくまともな人ではなさそうだと警戒を続ける。同時に霊園であった時と今の志摩にずいぶんと違う印象を受けていた。喋り方もそうだが、なにより最初の圧倒されるようなオーラが無く、今はまるで友達と話しているような感じだった。

「あのー、さっきとだいぶ印象が違うんですけど別人じゃないですよね」

 透が遠慮がちに問いかけると、志摩はケタケタと笑う。

「そんなわけないだろう。初めからこんな感じで話してたら真剣にきいてくれないと思ってネ、まじめっぽくしてたのさ」

「はぁ……」

 霊園では名前を呼ばれてから二言三言喋っただけでまともな会話などなかった。ほとんど強制連行されたから、話を聞くという問題ではなかったんだけど。しかし、正体のわからない女性を相手に本音を口にする気迫などない。

「最初はできるだけふつうの人間やってないと会話もままならないからネ。だからこうやって話を聞いてもらえるようにれば、堅苦しくやる必要もないのさ」

「そう、なんですか」

「この格好だってほんとは嫌なんだよ? 窮屈で動きづらいし苦しいったらない。ふつうの服だったら楽なんだけど、いい大人が普段着で昼間からうろついてるのは目立つからネ」

「いい大人って……芳野さんはおいくつなんですか」

 端整な顔立ちだが、小柄な身長に加えて混じりのない金髪、そしてラフな言葉使いから、志摩の年齢は低めに感じている。女性に年齢を聞くのはタブーだという社会人の常識はもちろん知っているが、相手が普通じゃないのを承知で聞いてみた。

「アタシかい? そんなこと気にしてどうするのさ。まぁキミよりは年上ってことだけ教えておくよ」

 志摩はタブーをあっさりと返した上に、女性ならば避ける年齢が上だということを明言した。透は驚き言葉を失う。自分より年上なら少なくとも三十歳より上ということになる。お世辞を抜きにしてもそれほどの年齢にはとても見えない。

「話しが脱線したネ。あんまり時間もないから本題に入るよ」

「僕に用事なんですよね……?」

 遠慮がちに聞く透に、志摩は首を横にふった。

「キミに用があるにはある。ただそれよりもなによりも、妹さんへの用事でネ」

「妹に、ですか……?」

 その言葉に冷静を装っていた仮面が剥がれていくのがわかった。だが志摩は、透を気にすることなく言葉を続ける。

「アタシがここに来たのはキミの妹さんを救うため。それには唯一の肉親であるキミの協力が必要なのさ」

 透は再び言葉を失った。彼女が何を言っているのかわからない。しかしその中で唯一理解できる、最も大事なことについて聞き出そうとする。

「妹を救う、って言いましたよね」

「そうだよ」

「もしかしてそれを言い出したのって、妹自身なんじゃ」

「へぇ……どうしてそう思うんだい?」

「それは、だって、妹を助けるだなんて……そんなこと言う人がいるわけ……」

 透の言葉にちからは無く消え入りそうなほどだった。志摩はうつむく透をみて諭すようにやさしく声をかける。

「ごめんよ、いじわるをするつもりじゃなかったんだ。トールが話に聞いた通りの人間か確かめてみたくなってネ」

「まさか、妹と話を!」

 冷静さなどとうに無くなっていた。透は静かに声を上げ、身を乗り出す勢いで志摩へ詰め寄る。

「こらこら落ち着きなって。ちゃんと話してあげたいところだけど今日はもうおしまい。詳しいことはまた明日、妹さんの前で話そうか」

「妹の前……ですか?」

「あすの同じ時間に同じ場所にきてくれ。それで今度は妹さんから直接話しをきくといい」

 志摩は落ち着かせるようにやわらかく語りかけるが、透は妹のことで頭がいっぱいになり混乱していた。さながら頭の上に星がぐるぐると回っているようだった。

  ◆  ◆  ◆

 鳴神鏡架《なるかみきょうか》は死んでいた。

 何不自由なく過ごした子供時代。高校を卒業後は進学もせず定職にも就かずふらふらとアルバイトを転々とする日々。

 目標もなく、希望もなく、毎日を浪費していく。何も成し遂げず、ただ生きているだけの命なんて、緩やかな死と同じ。

 時間の流れに抗うこともせず、ゆっくりとこの身が朽ちていき、生から意識が切り離されていく。そうして誰からも忘れ去られてゆく。

 鏡架はそうやって存在が薄れていくことを受け入れていた。

「兄さん、明日はなんかの試験だっていってたよね? どうなの?」

「公務員試験だよ。準備は満足できるくらいしたけど、あまり期待はしないでくれ」

「消極的だなー。兄さんは優秀なんだからもっと自信を持ちなって」

「ありがとう。鏡架にいわれると安心するよ」

 鏡架の借りているアパートの一室。透は夕方のアルバイトから帰る途中に妹の様子を見に来ていた。日付が変わりそうな時刻で寝ているのではと少し心配をしたが、鏡架は来るのがわかっていたように起きていて、兄を喜んで迎え入れた。

 広くはないワンルームの部屋。台所のシンクはきれいに片付いていて洗い物はまったくない。几帳面な性格もあって掃除もしっかりされている。洗濯物が溜まっているなどもなく、必要最低限の家具が整然としている。一人暮らしの部屋としては十分な生活空間だった。

 だが残念なことに、透が気にかけていることはまさにこの空間だった。

「鏡架、おまえ最近どこかでかけたか?」

「えー? バイトにはちゃんと行ってるよ」

「そういうことじゃなくて、遊びにでてるかってことだよ」

「兄さん、その話はもう聞き飽きた」

「じゃあ部屋からでてなくても本を読むとかテレビを見るとか、ゲームでもいい、何か夢中になれることをしてるか?」

 何度となく聞いた透のセリフに鏡架は辟易する。

 鏡架が家を出てこのアパートに一人で暮らすようになってからというもの、透は妹を心配してよく訪ねてくる。他愛のない話から始まり、最後にはこうして説教臭い話題になっていた。

「兄さんもいい加減私をわかってないね。私はそういう人間じゃないよ。たぶん、何を言われてもずっと」

「そんなことない。おまえは僕を優秀だって言うけど、なら妹のおまえだって優秀な血をひいてるはずだ」

「血筋なんてなんの頼りにもならないよ。家のことをぜんぶ兄さんに放り投げて逃げだしたときから、私はなにものでもなくなった。生きてるって嘘をついてるだけの屍だよ」

「鏡架…………」

 透が心配していること、それは妹が生きようとしていないこと。

 鏡架はけっして不出来な子ではなく、成績も数えるなら上からだったし素行も真面目なほうだった。ただそれでも兄である透と比べられることは多かった。

 謙遜してはいるが透は優れた頭脳と人格の持ち主で、人の前に立つリーダーたる資質も備えている。

 そんな兄と比べられている様子は、周囲の人間が攻撃をするいい材料となっていた。

 そして思春期にはいったころ、鏡架は自分という存在を疑いはじめた。両親からは兄の功績を聞かされ続け、ついには「なぜおまえは出来ないんだ」と言われるまでになった。透が聞けば抗議をしたであろうものの、彼がその事態を知ったのは、鏡架との会話がなくなってからだった。

 それから鏡架は誰に言われるわけでもなく兄と関わるのを避けた。それは鏡架が妹であるがゆえの行動だった。大好きな兄の邪魔をしてはいけない。ただそれだけの想いだった。

 高校を卒業すると同時に鏡架は家を出た。透は何度も引き止めた。出て行くのなら自分が出て行くと、まだ未成年の妹を一人にするわけにはいかないと。だが鏡架は「あの二人にはお兄ちゃんが必要なの、だから私が出ていくの」そう言って差し出された兄の手を振り払ったのだ。

 それからというもの、鏡架はただ生きるだけの生活を始めた。生きるために最低限のアルバイトをして、最小限の収入で暮らし、じっと息を潜める。何をするわけでもなく部屋に閉じこもり、誰からも干渉されない、それが自分の生き方なんだと信じて。だがあるとき気付くのだった。これは生き方ではなく、死に方なのだと。

 そんな死にゆく様をこのからっぽの部屋が体現していた。そのことに透が気づかないはずもなく、こうして頻繁に顔をだしているのだった。

「よけいな考えしてないでそろそろ帰ったほうがいいよ。明日は大事な試験なんだからしっかり休まないと」

「あぁわかってるよ、うん」

「終わったらどうだったか聞かせてよ。さすがの私も気になるからさ」

 最近はあまりみなかった妹の笑顔に透は少しだけ安心する。

「うん。わかった。また明日くるよ」

「それじゃあまた明日ね、試験頑張って」

「頑張るよ、ありがとう」

 透が帰ろうとドアを開けたところで鏡架が声を上げる。

「あっ、明日はくる前に連絡ちょうだい」

「連絡?」

 いつもは面倒だから連絡なんかしなくていいと言っていたのに。透は珍しいお願いを不思議に思うが、頷くほかにない。

「じゃあいくとき携帯に電話するよ。おやすみ」

「うん。おやすみなさい」

 透を見送った鏡架は明日の準備のためと、すぐに就寝するのだった。

 そして数時間後の早朝。鏡架は静かに目を覚まし、布団にもぐったまま時間をかけて脳を覚醒させていった。

 普段は気力もなにも無い生活をしているが今日は特別だった。兄が前々から準備していた試験の当日、いつものお礼と労いを兼ねて自分で料理を作ってあげようと考えたのだ。料理などしたこともない自分だから、時間がかかるのは予想できる。そう考えての早朝からの買い出しと仕込みの予定だ。透に連絡をするように言ったのも、用意ができてから迎えたいからだった。

 鏡架はたっぷり時間をかけて布団を這い出る。それから外着に着替え、財布と携帯を持ちスーパーへと出かけた。

 外は曇天とし粒の大きい雨が降っている。鏡架は自転車を諦めて、傘をさし、歩くことにした。

 近くを流れる川沿いをいけば目的のスーパーがある。歩道に沿って流れる川は幅が狭く、雨の影響で増水し流れの勢いが強まっていた。鏡架はあまりみない光景に、なんとなく川のほうへ意識を向ける。傘は視野を遮り狭くして、打ちつける雨音で耳を占有する。そして視線は荒れる川面へ。

 鏡架は自分へと向かってくる車に気が付かなかった。何かがぶつかるような強い衝撃を感じた瞬間、鏡架の意識はぷつりと途絶えた。

 顔にあたる雨粒にふと目を開けると淀んだ空が見えた。意識が戻ると脳は痛みを感知して全身へ警告をだす。身体を起こそうとするも激痛に身をよじり、声も出ない。わずかに首を動かしどうにか周りを見ようとするが、視界に入ってくるのは赤く染まった自分の身体ばかり。その悲惨な光景に、鏡架の意識は、安全装置が作動したように再び途絶えようとする。

 しかしそのとき、事故の音を聞いたのか人がちらほらと集まってきた。うち何人かが鏡架に駆け寄り彼女の身を案じている。

 そこまできて鏡架はあることに思い至った。鏡架はポケットから財布と携帯を取り出す。それを見ていたそばの人は、受け取ろうと手を差し出した。だが鏡架は渡そうとはせず、なぜか無理にでも身体を起こしはじめる。激痛に動くことさえ辛いはずの彼女が身体を起こそうとしている。不思議に思う周囲の人間は思わず見守っていた。そして鏡架は痛みに悲鳴を上げる身体を動かし、最後のちからを振り絞って財布と携帯を川へ向かって投げつけた。

 ボチャンっと投げたものが濁流へ落ちる音を聞いて、鏡架は安心したようにゆっくりと目を閉じた。

 透が知らせを耳にしたのは試験が終わり、鏡架のアパートへと向かっているときだった。携帯電話へ知らない番号からの着信。でてみると、病院からだった。透は急いで病院に行き妹のもとへと向かったが、治療を担当した医師は首を横にふるのだった。

 事故があったのは朝方、どうしてもっと早く連絡しなかったのかと透は関係者を問い詰めた。しかし妹は身分証となるものを何も持っておらず、誰にも連絡が取れなかったという。事故現場周辺での聞き込みをして、ようやく同じアパートの住人から名前が判明して、そこから透へ連絡がいったのだ。通報した人の証言によれば、妹は自分で財布と携帯電話を川へ投げ捨てたらしい。そんな馬鹿な。透はその話を信じることもできず、やり場のない怒りを抱えるのだった。

  ◆  ◆  ◆

 お昼を十分に過ぎたころ、透は昨日と同じ霊園へと足を運んでいた。律儀にスーツを着込んでいて暑くないのかと聞きたくなるほどだったが、額に浮かぶ汗をハンカチで拭う姿を見れば聞くまでもないことだった。

「やぁトール。昨日と同じく暑苦しい格好をしているネ。同じ格好で来いといった覚えがないけど、キミには季節感というものがないのかい?」

 志摩も昨日と同じパンツスーツ姿だったが、上着を脱ぎ半袖のブラウスで相応の装いだった。

「妹に会うんです。だらしない姿は見せたくないので」

 透の気を張った態度に志摩は呆れるように笑みをこぼす。

「まったく、キミみたいなクソ真面目な兄を持ってキョーカも大変だ」

 親しむように語る志摩を目の前にして、透は気が逸っているようだった。

「芳野さん、約束です。話してください」

 唇を噛みしめ、拳が震えるほど強く握りしめている。その様子はいまにも襲いかかりそうなほどだった。

「アタシを問い詰めたくてたまらないはずなのに、よくもまあ我慢できているネ」

「それも今のうちだけかもしれませんよ」

 透はなんとか笑顔を取り繕っているみたいだが、言葉に余裕の色はなかった。

「それは悪かった。でも大丈夫、それも今日で最後だから」

 志摩の最後という言葉に、透は眉根をよせた。意図を探ろうと考えているみたいだったが、そんなことはすぐに頭から霧散したらしく、志摩を見つめなおした。

「一晩考える時間があったし、キミならおおよそ察しはついているんじゃないかな。アタシは死んだあとのキョーカと会っている。それでキョーカは、兄であるトールのことをとても心配しているんだよ。自分が死んでからの兄は見ていられないってネ。トールは自暴自棄になるような人間じゃないからちゃんと生きているけれど、いまでもキョーカのことで自分を責めているだろう? 事故のとき、そばにいてあげたかったと嘆いている。そんな姿は見ていて辛い。だからキョーカはアタシを頼ったんだ」

「妹は、なんて……」

 透の振り絞るような問いに、志摩は首を横にふる。

「それは直接聞くといい」

 そう言って志摩は小型のボイスレコーダーを取り出して、それを透へと渡した。

 受け取った透はしばしそれをみつめ、覚悟を決めたように再生ボタンを強く押した。少しの無音、そして、

『ひさしぶりだね、兄さん。うわぁ……なんだろう、いざ話すってなるとすごく緊張する。もうずうっとお話ししてないからかなぁ。

 うんとね、言いたいことはいっぱいあるんだけど、時間が少ないから大事なことだけ話すね。

 私が事故にあったとき、兄さんは私のそばにいられなかったってすっごく後悔してるみたいだけど、兄さんが悔やむことなんかなにもないんだよ。

 あのとき私は自分で財布と携帯を捨てたの。兄さんも聞いたかもしれないけど、それは本当のことなの。なんでそんなことをしたかって怒るよね。

 でも聞いて。もし私がそうしなかったら、きっと事故の連絡が兄さんまでいったと思うの。そうなったら兄さんは試験を放り出して私のところまで駆けつけてしまう。それだけは嫌だった。兄さんはずっと頑張って勉強してたのに、私のためにその努力が無駄になっちゃう。それだけは絶対に嫌なの…………。だから私は兄さんに連絡がいかないように財布と携帯を捨てた。私のことを知ってる人なんて近所にほとんどいなかったしね。

 それでちゃんとその試験を受けた兄さんは無事に合格して、私は安心したの。でも兄さんはそれからも、私のことを思いだいしてはどんどんダメになっていった。そんな姿は見てられなかった…………。そうなの、私はずっと兄さんを見守ってたんだよ。だからさっきだらしない格好を見られたくないっていってたけど、もう十分みっともないところ見てたんだよね。残念でした。

 あーもう時間がないみたい。それじゃ最後に私からのお願いを一つ。っていっても志摩さんに頼んだことだから兄さんはなにもしなくて平気だよ。

 お願いっていうのはね――――私のことを、忘れてください。

 自分でいうのもあれなんだけどさ、兄さんのことだから私がなんて言おうとずっと引きずると思うんだ。私は、兄さんに幸せになってほしい。でもこれから先、私のことを思い出していたらきっと本当の幸せはおとずれない。だから私のことを記憶から消してしまうのが一番なの。そうすればもう、悲しい思いはしなくてすむから。

 それに、兄さんが私を忘れても、私は兄さんのことを忘れない。私はずっと兄さんといっしょだから。

 以上、鳴神鏡架のお別れの言葉でした。ばいばい、お兄ちゃん』

 透はボイスレコーダーを握りしめうつむいたままだった。嗚咽と共にポタポタと雫が落ちていくのを、志摩は静かに見守っている。ひとしきり地面を濡らしおえて、透は顔を拭い、赤い目で志摩を見すえた。

「すみません、お見苦しいところを……」

「いいさ、泣きたいときは泣くべきだ。心に嘘をつくのはつらくなるだけだよ」

「ありがとう……ございます……」

「お礼をいうのは早いんじゃないかな。これからアタシがキミになにをするか、わかっているのかい?」

 余韻に浸るのもわずか、志摩は意地悪そうに語り掛ける。それを聞いた透はみるみる表情を曇らせた。

「ちょっと待ってください! まさか本当に……」

「そうだよ、トール。キミの記憶を消すんだ。ちなみに消すのはキョーカの記憶だけだから完全な記憶喪失にはならないよ。そこは安心してネ」

「そんな……でも僕の記憶を消したって、妹がいた事実は残るじゃないですか! それを見たら僕だって思い出すかもしれない!」

 もはや志摩の存在は疑う余地もない。透は本当に記憶を消されてしまうと焦りをみせる。なんとか誤魔化せないかと声をあげてみるが、志摩の言葉に隙はない。

「あー、ちょっと言葉が足りなかったかな。消すのはキョーカの存在なんだ。だから彼女がこの世にいた形跡はなにも残らない。キミはもちろん、両親からもキョーカの存在をなかったことにするのさ。たしかにこの墓は残るけど、記憶が消えたトールには誰の墓かもわからなくなるよ。だから思い出すことなんてありえないネ」

 透は崩れ落ちそうになるのをなんとか耐えていた。よほど記憶を消されたくないのか、必死の抵抗をしようとするが、人智を超えた志摩の前には為す術などない。

「それじゃさよならだ、トール。もう会うことはないけど、しっかり生きるんだよ。キョーカのためにもネ」

「ま、待ってください! 妹の頼みを聞いたなら僕の頼みも聞いて――」

「悪いね、それはむりだ」

 透は微笑む志摩へすがるように手を伸ばすが、その手が彼女に届くことはなかった。

  ◇  ◇  ◇

「これで良かったのかい?」

 志摩は傍らに佇む鏡架に問いかける。

「はい。わがままに付き合っていただいてありがとうございます」

「これからアタシの仕事を手伝ってくれるんだ、これくらいはネ。でも記憶を消したからって、トールが幸せになれるとは限らないよ?」

「大丈夫です。兄さんならぜったい幸せになれます」

 自信満々で思いを馳せる鏡架に、志摩は呆れて水を差す。

「それよりキョーカ、さっき録音だっていう設定忘れてだたろう」

「うそっ、私なにかいっちゃってました?」

「兄さんを見守ってた、のくだりでいっちゃってるよ」

 鏡架は視線をそらして逡巡すると、しまったという顔をする。

「あはは、いったかもしれないですねー」

「笑っても許してあげないからネ」

 容赦のない一言に、鏡架は口をとがらせ文句を言う。

「録音なんて設定にしないで、最初から会えるようにして普通に話させてくれればよかったんですよー」

「あのネ、会って話しなんかしたら未練が増して後にひきずるだろう」

「たしかに兄さんはあんな感じですから、ますます私のことを気にかけそうですけど……でも記憶を消すなら関係ないんじゃ?」

 鏡架が不思議そうに首をかしげる様子を見て思わずため息が出た。

「キミのことをいってるんだよ、キョーカ」

「えっ、私?」

「いまはトールの記憶を消したあとだから未練もなくすっきりしてるけど、さっきの段階でトールとコミュニケーションとったりしてみなよ? 泣き崩れて鼻水垂らして顔をぐちゃぐちゃにして、別れ話どころじゃなくなってたよ」

 きょとんとしていた鏡架はみるみる顔を赤くして反論する。

「そ、そこまでひどいことにはなりませんよ!」

「でも似たような状態にはなるだろう?」

 志摩はニヤニヤとした視線でからかう。鏡架は返す言葉がないようで、赤くなったまま頬をふくらます。そのまましばらく抗議の視線を送っていたが、やがて口をもにょもにょとさせて、ためらいがちに口を開いた。

「なんで志摩さんは、私の思ってることがわかるんですか」

「なにもキミたちの考えがすべてわかるわけじゃないさ」

「それじゃあどうして……」

「アタシはネ、心の声を聞きとることができるんだよ」

「志摩さん…………なんかちょっと痛いです」

 なんとも率直な感想だった。志摩はにっこりと笑みを浮かべると掌を高く上げ、そして振りおろす。

「ったい!」

 頭部を叩かれた鏡架は鈍く悲鳴をあげた。

「死んでるといっても、いまはアタシのおかげで生きてるのと同じなんだ。言葉は選んだほうがいいと思うネ」

「うぅー……――ところで志摩さん、もう一つ聞きたいことがあるんですけど」

「なにかな?」

「兄さんをわざわざ私のお墓に呼び出したのはどうしてですか? 場所なんてどこでもよかったはずですけど。もちろんそのほうが自然な流れですから、兄さんも話を信じやすいと思いますけど」

 鏡架はほとんど自分で答えを言ったようなものだった。それでも志摩は、彼女の疑問に本当の答えを告げる。

「それは、ここがキョーカの墓だからだよ」

 なんてことはない平凡な言葉。これで伝われば今後も期待ができると思ったのだけど、鏡架は続きを促すような視線を送っていた。

 志摩は努めて冷静な口調で語る。

「人が死んだ時、親しい人間はその人との思い出を同じ棺にいれる。そして墓を訪れては鮮やかな記憶を心に浮かべる。ここは死んだ人間が思い出を通して生き還れる場所なんだ。だからキョーカの存在をここに、キミの墓にしまっておくことにしたんだ。キョーカの存在を消したいま誰もキミの墓を訪れることはない、キョーカはこれからずっと死んだままになる。それは可哀想すぎるからネ。この先キョーカがアタシの手伝いを辞めたいといって静かに眠ることを選んだときは、ここにしまったキミの存在を元に戻すことに決めたんだ。キョーカは文句をいうかもしれないけれど、それでもやっぱり、誰からも忘れられてしまうのは寂しいよ」

 唇が震えている気がした。それを誤魔化すように空を仰ぐと、雲間から漏れる日差しに照らされるのを感じる。

「志摩さん――」

 ふいの言葉を遮るように視線を戻す。鏡架は何か言いたげな顔をするが、志摩は咎めるように見つめる。なにも言わなくていい、心の声ははっきりと聞こえる。

 鏡架は言葉を飲み込むようにゆっくりと瞼を閉じた。そして心を決めたように開かれた瞼、その双眸は志摩をとらえているが、それよりもずっと遠くをみている気がした。

「心配ないですよ。私はずっと、あなたといっしょに生きていきますから」

 そう言ってはにかむ鏡架に、志摩もまたいつもの調子で笑い返した。

「ほんとに、生意気な死人だネ」



 初めての地上はとても寂しかった。

 わたしは見渡す限りの荒地にぽつねんと降り立つと、そう感じた。

 木々は枯れ果て、乾いた地面には雑草すらない。浅い溝のような地形が大地を横断するように伸びている。おそらくかつての川の跡だと思う。もうずいぶんと長いこと、雨など降っていないのだろう。

 乾いた冷たい風が肌を撫でる。揺れる髪を押さえて周囲を見渡す。

 建物はいくつか見えるけど、どれも荒廃しているのが遠目にもあきらかだった。人間が住んでいる気配は感じ取れない。それでも念のためと、わたしは一番近くの建物へと歩を進めた。

 近づくにつれてそれが家だとわかった。小さな家。扉はすでに無く、石造りの外壁はボロボロに朽ち果て、窓と思わしき枠がいくつか並ぶ。屋根は半分無くなっていて、その残骸らしき塊が砂礫の床に転がっている。

 残骸をよけながらあたりを物色する。家具が揃っていて、かつての住民の生活が垣間見える。小物は形を残していないみたいで、判別できるのはベッドやテーブルなどの大きいものぐらいだ。

 特に目ぼしいものはないみたいでため息がでる。しょうがないから次に行こうとしたとき、何かにつまづいた。思わず情けない声が出たけど、誰にも聞かれていないことにほっと安心する。

 振り返り、しゃがんで足元に目を凝らす。砂になにかが埋もれている。わたしは腰に携えたスコップを取り出し、慎重に周りを掘り出す。

 深くはなかったみたいで、数センチ掘っただけで埋もれていたものの全体がみえた。それはフォトフレームだった。持ち上げると木製の枠が崩れ、ガラス板に挟まれていた写真が抜け落ちてひらりと舞う。拾い上げると、そこに写っているのは若い男女だった。仲睦まじく寄り添う二人。その背景には畑が広がり、遠くにある山々には緑が生い茂っている。まだ自然があった頃の写真に、微かな郷愁を覚えた。

 ちょうど十番目の建物が見えたころ、あたりが暗くなり始めていた。地上で夜を迎えるのはできれば避けたい。わたしは次で最後にしようと目前の建物へ急いだ。

 家だ。それも最初にみた家よりもさらに小さい。暗がりでわからなかったけど、驚いたことに建物は原型をとどめていた。歩を緩めて、まじまじと観察する。すると、窓から微かに明かりが揺らいでいるのがみえた。わたしは思わず息をひそめた。砂礫を踏む音がやけに大きく聞こえる。窓に近づきちらりと中を窺う。しかし見える範囲には誰もいない。無人なのに明かりが灯っているのだろうか。いや、それも中に入ればわかるはず。わたしは深呼吸をする。意を決して扉の前に立った。

 扉を拳で叩く。

 数秒……。

 反応はない……。

 わたしはドアノブに手をかけゆっくりと引き、半身で中を覗く。家の中には誰もいない。ランプの炎が静かに揺らめいている。恐る恐る中へ入って様子をみる。風を凌げるせいか中は暖かかく、人のぬくもりが感じられた。小さなテーブルとイス、それにベッドが一台。キャビネットにはペンとメモ帳、本が数冊。何者かが一人で暮らしている様子が目に浮かぶ。しかし、その何者かはどこにいるのだろう。ランプに灯された炎がつい先ほどまで誰かがいたことを物語っているのに。

 わたしはイスに腰掛けて本を手に取る。厚みのある装丁で、表紙にタイトルのようなものはない。表紙をめくってページに目を通すと、タイトルがないのも頷けた。これは日記帳だった。

  ◆ ◆ ◆

 恵雨の月・十四日。きょうは突然の来客があった。軍のお偉いさんが三人そろってやってきた。話を聞くと、近々ある戦争に向けて徴兵をしているらしい。元軍人の私に声がかかるのは不思議じゃないが、私にその気はない。丁重にお断りをしたが、お偉いさんがたはまた来ると言って帰っていった。あきらめの悪いやつらだ。


 恵雨の月・二十日。首都へ買い物に行った。街中をうろつく軍の姿がちらほらあった。どうやら戦争をするというのは本当らしい。街の住民も軍人をみて不安そうな顔をしていた。露天商の男が言うには隣国が戦術兵器を開発していて、それに対して我が国は先手を取ろうと躍起になっているそうだ。彼も様子を見て国外に避難すると言っていた。戦術兵器が本当ならここも危ないだろう。


 真央の月・三日。けたたましい爆音に目が覚めた。外を見たら遠くで煙があがっていた。音は一度きりだったし首都の方向ではなかったから、まだ本格的に戦争を始めたわけではないだろう。しかし、その日はそう遠くなさそうだ。


 収穫の月・十日。軍のお偉いさんがきた。今度は二人だった。話の内容は同じで、私に兵役復帰しろとのことだ。もちろん断った。私はもう武器を持たないと決めたんだ。たとえそれで死ぬことになることになっても。


 降霜の月・二日。戦争が始まったようだ。ここは遠く離れているからまだ影響はないが、やがては戦火に巻き込まれるだろう。数少ない周りの住人たちも避難して、いまでは私が残るのみだ。私もこの家を捨てるべきだろうか。


 降霜の月・二十八日。とうとう首都に入れなくなってしまった。戦線が近づいているということだろう。つまり我が国が劣勢なのだ。砲撃の音も近づいてる気がする。ここにもいつ流れ弾が飛んでくることやら。


 黄昏の月・十七日。おかしい。ここ数日で砲撃の音がぱったりなくなった。首都に様子を見に行こうにも、さすがにおっかなくて出歩けない。もうしばらく様子を見るべきか。

  ◆ ◆ ◆

 そこで日記は終わっている。最後の日付は十日前。いや、内容をみる限りでは今年の日付じゃないはずだ。おそらく、例の事件が起きた年…………。

 ふいに扉が軋む音がした。視線をあげると扉が開き、男の姿があった。短い白髪。黒を基調とした軍服。シルエットは細いが、裾から覗く肌を見れば鍛えているのがよくわかる。皺のある顔つきは険しく、切れ長の目元が威嚇するようにこっちをみつめた。

「だれだ……?」

 見た目の印象よりもかなり落ち着いた声だった。

「かってにお邪魔していてすみません」

 わたしは立ち上がり頭を下げる。罵声も覚悟していたけど、男は気に留めたようすはなかった。

「かまわねぇよ。人に会うのはひさしぶりだ。俺はドレム。お嬢ちゃんの名前は?」

 わたしは言うべきか少し悩んだ。しかし先に名乗れてしまってはわたしも名乗るしかない。

「メイ……といいます」

 ドレムはベッドに腰掛けて低い声で唸る。

「うーむ、聞いたことない名前だな。この国の出身か?」

 こんどは答えなかった。

「まぁいいさ。ところで、腰のポーチはどこかの支給品か?」

「これは……どうして気にするんですか」

「その黒い羽根のシンボルマークをどこかで見た気がするんだ。どこだったかな」

 わたしは答えない。

「それもダメか。じゃあここにはなにしに来たんだ? そんなサバイバルな格好で観光ってわけじゃないんだろ?」

「調査をしにきたんです。あの事件以来この国はゴーストタウンと化しています。でも最近になって人の姿があるという報告がありまして、ほんとうに生存者がいるかどうかを調べに」

「調査ねぇ。その生存者ってのはたぶん俺のことだな。他には誰もいない」

「……先ほどはどちらに行かれてたんですか?」

 こんどはわたしが質問をする。

「近くに地下シェルターがあるんだ。そこに蓄えてある食料を取りにいっていた」

 ドレムはポケットから缶詰を取り出す。どれも見たことのないものだった。

「そうですか。どうしてシェルターではなくこの小さな家に住んでるんですか? いちいち食料を取りにいくのもめんどうでしょう」

「まともな人間なら地下で暮らすなんてことはしないよ。あんなとこに閉じ込められてたら狂っちまう」

 その言葉を聞いて、自分がまだ正常であることを認識して安心する。

「それは、そうかもしれませんね」

 しばしの沈黙。さきに口を開いたのはドレムだった。

「お嬢ちゃん。お目当ての生存者をみつけたわけだが、どうするんだ?」

「……もしあなたにその気があるのなら、わたしの国に来てもらうつもりです。保護という名目で」

「保護だって?」

「わたしが……国が生存者を探していたのは保護をするためです。あの事件の生き残りがいるのなら助けなくてはならない。いかに物資があろうともいずれは底をつきます。そうなる前に見つけて保護をするんです」

「そうか」

 ドレムはそれだけ言ってまた口を閉ざした。わたしは続く言葉を模索する。

「どうですか。わたしといっしょに来てはいただけませんか?」

 沈黙。やがてドレムは言葉を濁しながら喋る。

「これはたとえ話なんだが、そうだな……俺のほかに、もし、生存者がいたら、その人たちも保護ってことになるんだろうか」

「もちろんそうなります。ほかにいればの話ですけど」

「ほんとうだな?」

 ドレムの強面がこちらを見つめる。威嚇するような目には希望の色がみえるようだった。

「……ご心配なく。何人いようとも、責任をもって保護します」

 見つめ返すわたしの目を受けて、ドレムはなにかを決めたようにすっと立ち上がった。

「ついてきてくれ」

 ドレムはそう言って、扉を開けて外へ出た。

 わたしも覚悟を決めて、あとを追った。


 外は太陽が沈んでしまい、電源が切れたように真っ暗だった。ドレムはいつの間にか持っていた懐中電灯で足元の先を照らしている。わたしもポーチから小さめの懐中電灯を取り出す。

 風が吹きすさぶ暗闇の中を、ドレムは迷うことなく歩き進む。なにかに頼っている様子はなく前だけを見ている。その後ろを離れることなく付いていく。懐中電灯の明かりがあるとはいえ、数メートル離れたら姿をとらえるのは難しいだろう。

 冷たい風に包まれ身体は冷え切ってしまった。ドレムは近くと言っていたけどずいぶん歩いた気がする。いや、暗闇をあてもなく歩かされているから、感覚がおかしくなっているのかもしれない。手首の時計を確認すると、じっさいにはそれほど時間は経っていなかった。

 そこからしばらくしてドレムは足を止めた。そこは目印になるようなものは何もない、変わらない荒野だった。

「ここだ」

 そう言ってしゃがむと、砂に埋もれていた鎖をつかんだ。鎖を力強く引っ張ると地面が音を立てて動いていった。明かりで照らすと、動いたいたのが地面ではなく鎖に繋がれた金属の板だとわかった。ドレムの力んでいる姿からかなりの重さなのだろう。ドレムが最後の一息で引っ張るとぽっかりと穴が現れた。これがさきほど言っていた地下シェルターなのだろう。

「目印もないのによく場所を覚えていますね」

「家を出る時の方角と、あとは歩数で計っている」

「歩数……それはまた、無茶なことをしていますね」

 途中で歩数を忘れたらどうするのだろう。歩幅を一定に保つのだって意外と難しいのに。だいたいこの荒野でまっすぐ進み続けるのも、そうとう無謀なことだと思う。

「さきにはいってくれ。蓋を閉める」

「わかりました」

 わたしは言われた通り地下に続く階段を下りた。懐中電灯で先を照らしながら進んでいくと、前方が明るくなっていくのが感じられた。そして道幅が広くなったところから電球が吊り下げられていた。わたしは懐中電灯をしまい、後ろを振り返る。ほどなくしてドレムが追いついてきた。

「この先だ」

 そう言ってわたしを追い抜く。そこからほんの数メートル先の空間に出て、わたしは驚いた。

 そこには五十人近い人が生活をしていた。集合住宅を思わせる雑多な空間は、ここでの生活が短くないことを示していた。

 見えるのは大人や老人の姿ばかりで、子供はいないようだった。気にかかるのは誰もこちらに注目しないこと。ドレムはともかく、わたしは初めて来る人間だというのにこちらを見向きもしない。というよりも、この距離まできてもわたしたちに気付いていないというべきなのか。

「この人たちは?」

「生存者だ。あの事件のな」

「こんなに、ですか」

「生存者といっても、ほとんどは半死人だ。正常な意識を持ってるやつは少ない」

 それでこちらに反応がないのか。よくよく考えればそれもそうだろう。少なからずあの事件の被害を受けているのだろうから。

「……さっきは生存者はあなただけだと」

「申し訳ないが、嘘をつかせてもらった。素性のわからないやつに、ここを教えるわけにはいかなかったんだ」

「……教えていただいたということは、わたしの言葉を信じて、この人たちの保護を頼みたいということでしょうか」

「そうだ。俺が世話をするだけでは意味がない。治療はもちろん、ちゃんとした生活をさせてやりたい」

「……意味がないとわかっていても、これほど長いこと面倒をみていたのですか?」

 ドレムは天井を仰ぎ、深く息を吸う。

「ここには、俺の親父もいる。あの事件……戦術兵器アウルロニスによる絨毯爆撃で足を失ってからは死人も同然だがな」

 家族を想う姿はどことなく哀愁を滲ませている。その気持ちがわたしにも伝播したかのように、空にいる両親の顔が浮かんでくる。

「じゃあ、あの日記は」

「読んだのか?」

「はい、すみません……」

「そうか。あれは親父の日記だ。あの家は運よく爆撃を避けて形を残していた。親父は運悪く外にいたもんだから、あんな風になっちまった」

「爆撃があったとき、あなたはどこに?」

「俺はここにいた。食料を運び込んでいたところだった。そしたら地震がおきたように壁と地面が揺れた。身体が震えるような衝撃が何度も続いた。振動が止んでから外に出たら、そこはもう、俺の知ってる世界じゃなかった」

 わたしは閉口する。あのときの光景はわたしの記憶にも残っている。

 山が消えた。

 森が消えた。

 街が消えた。

 家が消えた。

 人が消えた。

 いまでも時々、トラウマともいえるあの光景を夢にみる。悪夢を。

 やっぱりわたしは…………。

「ドレムさん、ここにいてください。それからしばらく外にでてはいけません。わたしがもう一度来るまで、ここに隠れていてください」

「なにをいってるんだ、お嬢ちゃん」

「すみません、わたしも嘘をついていました。わたしの本当の目的はあなたたち生存者の居場所を探し出すこと。そして、それを上に知らせること」

 ドレムの表情が曇る。

「上っていうのは、だれなんだ」

「言葉通りです」

 ドレムは逡巡して、はっとしたようにこっちを見る。怒りとも怯えともとれる表情は、わたしの言葉を理解した証拠だった。

「戦術兵器アウルロニス、またの名を飛空要塞アウルロニス。わたしはそこの生まれです。まだ幼かったわたしは、空から爆撃の様子を見ていました」

「思い出した……。まだ戦争が起こるまえに、スパイによって調査された敵国の情報が流された。それには脅威となる戦術兵器の写真が載っていた。写りは鮮明じゃなかったが、たしかにその兵器には、黒い羽根のシンボルマークが描かれていた……」

 ドレムはわたしのポーチに目をやる。そして苦虫を噛み潰したような顔で悪態をつく。

「くそったれが! あのとき気付いていりゃここを教えたりしなかったっていうのに!」

「落ち着いてください」

「どの口がいってくれる! おまえはさっき上に知らせるといった! 理由は一つだ。残った生存者を殺すためだろ。違うか!」

 ドレムの憤りが地下に木霊する。

「もう一度いいます、落ち着いてください。たしかに最初はそのはずでした。わたしが生存者を探し出して、上がそれを……その……処分、すると。……でも、いまは違います! わたしは本当にあなたたちを助けたい」

「信用すると思うのか」

「信用してもらうしかありません。わたしはこの地下のことを、あなたたち生存者のことを上には報告しません。行動は制限されますが、すぐに殺されるようなことにはなりません。わたしはこれでも軍に人脈があります。知人に医者もいます。この地上での調査はまだ長いこと続くはずです。わたしはそのたびにここに食料をもってきて、医者もつれてきます」

「だがそれも付け焼き刃でしかない」

「わかっています。だから、わたしを信じて待っていてください。わたしが国を変えてみせます! あなたたちを殺させない世界にしてみせます!」

 それは、たぶん、わたしの本心だった。いままで抑え付けられていた感情が、荒んだ大地を見て、そして苦しむ彼らを見て、限界にきたんだとおもう。

 実際に目の当たりにするまでは、自分には関係のないことだと思っていた。でもそうじゃなかった。わたしの言葉一つで、彼らの命は奪われてしまう。

 わたしは、彼らを殺せる。

 違う。そうじゃない。

 わたしは、彼らを助けられるんだ。

「信じてください。ぜったいに助けてみせます」

 ドレムがわたしを見つめる。その眼差しは鋭く、心を覗かれるようだった。いっそのこと覗いてくれればいい。わたしの救いたいという想いをみてほしい。絶対に助けるという想いを。

 長い沈黙を破って、ドレムが口を開いた。

「わかったよ、お嬢ちゃん。信じてみるよ」

「ドレムさん……」

「地下に閉じ込められるのはしょうじき勘弁なんだが、遅かれ早かれこうなる気がしてたんだ。覚悟を決めるよ」

「ありがとうございます!」

「礼をいうのはこっちのはずなんだがな。お嬢ちゃんの気持ち、うれしいよ。ありがとう」

「そのお嬢ちゃんはやめてくださいよ。わたしの名前はメイです」

「あぁ、そうだったな。ありがとうな、メイ」

 ドレムは少し照れるように笑った。普段が強面のぶん、笑顔はとてもすてきに見えた。

「そうだ、これを持っていてください」

 わたしはジャケットの胸に付けられた黒い飾り羽根をはずす。

「黒い羽根は、わたしの国で守護の象徴とされています。黒い羽根のシンボルマークが描かれるのもそのためです。これを持っていればきっと大丈夫です」

「しかし、俺が持っていたらメイはどうするんだ」

「わたしは大丈夫ですよ。だってあのアウルロニスにいるんですから」

「いってくれるじゃないか」

 わたしの皮肉にドレムは笑ってくれた。もう緊張は解けたみたいだった。

「それではわたしは戻りますね。次がいつになるかはまだわかりませんが、必ずまたきます」

「あぁ、待ってるよ」

 ドレムの言葉を聞き届けてから階段の方へ歩きだそうとしたら、

「そうだ。一ついっておくことがある」

 わたしは振り返る。

「なんですか?」

「俺は暗いところが苦手なんだ。とくに一人でいるのは耐えられない」

 ドレムは茶化すように言った。それを聞いて、わたしは微笑む。

「なるべく早くきます。では、また」


 重い金属の蓋をどかし外へ出ると光が差してきた。わたしは眩しさに思わず手をかざし目を細める。視線の先には人工的な冷たい光が輝き、それを遮る人影がいくつかあった。その中の一人が近づいてくる。翳る姿、その正体がはっきり確認できたとき、わたしは背筋が凍った。

「監督官……」

「ズルメイ調査官。初めての地上調査、ごくろうだ。調査の結果はどうかね?」

「どうしてこちらに……?」

「いやなに、きみのことが心配でね。なにせ初めてのことだ、予期せぬ出来事がおきていないかと様子を見にきたんだ。それで調査の結果は、どうだったかな?」

 バレてる……いや、落ち着きなさい。ここが何かはわたしが喋らなければわからないはず……なんとか誤魔化すしか……。

 小さく深呼吸をして平静を装う。

「地下シェルターを発見しました。しかし、中は無人で放棄されています。いえ、最初から誰もいなかった可能性もあります」

「ふむ、そうか無人だったか」

 監督官はあごに手をやり考えるように唸る。これで隠し通せるとは思えない。ここはもう一つ……。

「ですが中を調べれば何か判明するかもしれません。今後も調査をする必要があるかと思います。おそれながら、引き続きわたくしに調査を担当させてはいただけないでしょうか」

「そんなにかたくならずともよい」

 監督官は笑みを浮かべる。

「もちろん調査は続ける。そうだな、今後もきみに頼むのがよさそうだな。経験を積むにはちょうどいいだろう」

「あ、ありがとうございます!」

 よかった……これでドレムとの約束を守ることができそうだ。

 安堵していると、わたしの元に監督官が近寄った。

「ちょうどよい機会だ、ズルメイ調査官にもみせておきたいものがある」

「わたくしにですか……?」

「そうとも、今後の調査にも役立つものだ。先日に開発が完了したものでな。おい」

 監督官は後ろで待機していた武装兵を呼び寄せる。

 武装兵は構えていた銃を離し、ノートブックみたいな端末を取り出した。平たい端末は液晶画面しかなくボタンの類はない。監督官はそれを受け取り、画面を指先で触る。それで操作しているようだった。

 監督官は操作を終えたのか、端末をわたしの後方へとかざした。わたしも倣うように振り返り、端末に目を向ける。真っ黒な画面の中に赤い色をした塊がいくつもあった。かすかに動いているようにもみえる。

 それがなにを示すのかに気付き、わたしは全身から血の気が引くのを感じた。

「これはこれは、どうやら無人ではなかったようだな」

「……ま、待ってください!」

 わたしはすがるように叫んだ。しかし、監督官は取り合うつもりなどまるでないようだった。手を挙げて、前方に軽く振り下ろす。その合図と共に、待機していた幾名の武装兵が地下へと走り込んでいく。

 わたしはただ茫然として、引き止めるちからもなかった。

 監督官は変わらない笑顔でわたしの肩を叩く。

「やはり様子を見にきて正解だったようだ。なに、気にすることはない。初めてのことだから、このような見落としくらいはあるものだよ」

 わたしは言葉がでなかった。どうすることもできない。なにもできなかった……。

「ここは彼らにまかせて上に戻ろう」

「うえに……」

 わたしは空を仰ぐ。浮かんでいるのは飛空要塞アウルロニス。わたしの育った家。そしてわたしを閉じ込める牢獄。

「おや、ズルメイ調査官、羽根はどうしたのかね?」

「これは…………」

 胸元に手をやる。いつも身に着けていた黒い羽根。守護の象徴。わたしを守ってくれるもの。いまはもう……。

 監督官は新しい、黒い飾り羽根を取り出した。

「あれがなくては困るな。どれ、新しい羽根を渡そう。次はなくしてはいけないよ、これは我が軍の誇りなのだ」

 違う。

「ズルメイ調査官?」

 これはわたしの羽根じゃない。

「どうかしたのかね?」

 わたしの羽根は、

「聞いてい――」

 あそこにあるんだ!

 瞬間、駆け出す。

 再び、暗く狭い地下へ。

 わたしを待っている人の元へ。

 願わくは、黒き羽根のご加護を。